
スピノザを読む前に、一頭のユニコーンを用意しよう
一本の角をもつ馬を「ユニコーン」とする。
この定義そのものに、さほど問題はないだろう。現実にそのような馬を見たことがなくても、「一本の角をもつ馬」という概念をつくり、それを「ユニコーン」と名づけることはできる。しかし、ここで一つ注意しなければならない。
「一本の角をもつ馬はユニコーンである」ことと、「ユニコーンが存在する」ことは同じではない。 前者は、「一本の角をもつ馬」という概念と「ユニコーン」という名称を結びつける定義である。ところが後者は、この世界のどこかに、その定義を満たすものが実際に存在する、という主張になる。いくらユニコーンの姿を詳しく定義しても、それだけで森の中からユニコーンが一頭歩いて出てくるわけではない。 この区別は、あまりにも当たり前に思える。
ところがスピノザの『エチカ』を開くと、その冒頭から少々様子が違ってくる。『エチカ』は通常の哲学書のように、ある問題について文章を重ねながら論じていく本ではない。「定義」「公理」「定理」「証明」を積み上げていく、いわゆる幾何学的秩序によって書かれている。國分功一郎も、この特殊な形式について、最初から読むと面食らうかもしれないという趣旨で紹介している。 そして第一部「神について」の最初に置かれているのが、「自己原因」という奇妙な概念である。スピノザは、**自己原因とは「その本質が存在を含むもの」**と定義する。ここで、先ほどのユニコーンが頭をもたげる。
概念を定義することと、その概念に対応するものが存在することとは別ではなかったのか。もちろん、スピノザも「神というものを定義した。したがって神は存在する」と単純に述べているわけではない。定義から公理へ、公理から定理へと論証を積み重ね、やがて定理11で、「神は必然的に存在する」 という結論へ到達する。では、その間に何が起きているのだろう。
その橋をスピノザはどのように架けたのか。そして、その橋は本当に渡ることのできる橋なのだろうか。まずは『エチカ』第一部の論証を、その出発点から追ってみたい。

定義された概念から、存在するものへ
先ほどのユニコーンでは、「一本の角をもつ馬をユニコーンとする」という定義から、「ユニコーンが存在する」という結論を導くことはできなかった。 では、スピノザはどうしたのだろう。『エチカ』第一部から、存在へ向かう一本の道筋だけを抜き出してみよう。
定義1 自己原因
自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。
『エチカ』はいきなり難物から始まる。普通のものは、その「本質」をいくら説明しても、それだけでは存在を保証されない。ユニコーンを「一本の角をもつ馬」とどれほど正確に定義しても、ユニコーンが実在することにはならない。ところがスピノザは最初に、**「その本質が存在を含むもの」**という特殊な概念を設定し、それを「自己原因」と名づける。ここではまだ、そのようなものが実際に存在すると証明されたわけではない。「そのようなものを自己原因と解する」という定義が置かれただけである。 問題は、この「存在を含む」という性質が、この先どのように働くかである。
定義3 実体
実体とは、それ自身のうちに在り、かつそれ自身によって考えられるもの、言いかえれば、その概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。
ここで「実体」が登場する。机を考えるには木材や形状など別の概念が必要になる。ところがスピノザの「実体」は、他の何かを持ってこなければ存在も理解もできないものではない。それ自身のうちに在り、それ自身によって考えられる。存在についても、概念についても、他者への依存を必要としないものとして設定されている。 ここで定義1の「自己原因」と定義3の「実体」が、まだ同一ではないことには注意しておきたい。スピノザはこのあと、この二つを論証によって結びつけていく。
公理7
存在しないと考えられうるものの本質は、存在を含まない。
短い。しかし重要な公理である。ユニコーンに当てはめれば分かりやすい。「ユニコーンは存在しない」と考えても、ユニコーンという概念そのものに矛盾は生じない。したがってユニコーンの本質には、存在は含まれていない。これを逆方向から見ると、スピノザがこれから証明しなければならないものも見えてくる。もし、あるものの本質そのものに存在が属すると示すことができれば、そのものを「存在しない」と考えることはできなくなる。ここで「定義」と「存在」の間に、橋を架ける準備が整い始める。
定理7
実体の本性には存在することが属する
ここで大きく動く。定義3では「実体とは何か」を定めただけだった。ところが定理7では、実体には存在することが属するという命題が登場する。 スピノザの論証を縮めれば、実体は他のものによって産出されるものではない。したがって実体は自己原因でなければならない。そして定義1によれば、自己原因とは「その本質が存在を含むもの」である。 したがって、 実体 → 自己原因 → 本質が存在を含む という連結が置かれる。ここが、われわれのユニコーンにはなかった部分である。ユニコーンには、 ユニコーン → 自己原因 → 本質に存在を含む という橋はない。スピノザは「定義したから存在する」と言っているのではなく、実体というものの性格をたどれば、その本性から存在を切り離せないと論証しようとしているのである。さて、この橋は本当に渡れるのだろうか。 それはまだ保留しておこう。
定理11 神は必然的に存在する
そして、ついに目的地へ到達する。
神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は、必然的に存在する。
定義6でスピノザは神を「絶対に無限な実有」、すなわち無限に多くの属性から成る実体として規定していた。そして、すでに定理7で、実体の本性には存在することが属する としている。 そこで「神は存在しない」と仮定してみる。 公理7によれば、存在しないと考えられるものの本質は存在を含まない。しかし神は実体であり、定理7によれば実体の本性には存在が属する。
すると、神の本質は存在を含まない と 神の本質は存在を含む が同時に成立してしまう。矛盾である。したがってスピノザは、神は必然的に存在する。Q.E.D.(以上、証明終わり)と結論する。では、ユニコーンと何が違ったのか ここまで来ると、少なくとも一つのことは分かる。スピノザは、「神を定義した。だから神は存在する」という単純な論法を使ったわけではない。彼は、
定義1「自己原因」
→ 定義3「実体」
→ 公理7 存在しないと考えられうるものの本質は、存在を含まない。
→ 定理7「実体の本性には存在が属する」
→ 定理11「神は必然的に存在する」
という論証の鎖を用意している。したがって、冒頭のユニコーンを持ち出して、「ユニコーンを定義しても存在しない。だからスピノザも間違いだ」と片づけることはできない。むしろ問題は、ここからである。なぜ「実体」だけは、その本性から存在を導くことができるのか。そして、「他によって産出されない」ことから「自己原因である」へ進み、さらに「本質が存在を含む」へ進む論証は、本当に成立しているのか。
ユニコーンは消えたのではない。月夜の崖の上から、まだこちらを見ている。
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