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Τέχνη Ῥητορική,

アリストテレス――人はなぜ怒り、恐れ、憎むのか

『弁論術』第2巻に見る情念の成立条件

1.説得するためには、人の心を知らなければならない

アリストテレスの『弁論術』は、単なる「上手な話し方」の本ではない。議会や法廷などで、人は何によって判断を変えるのか。その仕組みを分析した書物でもある。

『弁論術』第2巻の冒頭で、アリストテレスは議論の内容だけでなく、話し手がどのような人物に見えるか、そして聞き手がどのような感情状態にあるかが判断に影響すると考える。人は好意を抱いているときと憎んでいるとき、怒っているときと穏やかなときでは、同じ事柄について同じ判断をするとは限らない。

そこでアリストテレスは、情念を単に「怒り」「恐怖」「憐れみ」と名づけるだけではなく、
人はどのような状態にあるとき、その情念を抱くのか。
誰に対して抱くのか。
何を理由として抱くのか。

という成立条件を一つずつ調べていく。
ここに『弁論術』の情念論の大きな特徴がある。

2.怒り――被害だけでは怒りにならない

第2章 で扱われるのが「怒り」である。
アリストテレスは怒りを、軽視されたことによって生じる苦痛と、それに対する復讐への欲求を含む情念として捉える。そして怒りは誰に対してでも生じるものではなく、具体的な人物に向けられる。ここが重要である。単に自分に悪い出来事が起こったから怒るのではない。「自分はこの相手から不当に扱われた」「軽蔑された」という認識が介在する。

そのためアリストテレスは、軽蔑、侮辱、妨害など、どのような行為が人を怒らせるのかを細かく検討している。また、人は病気、貧困、恋愛、渇望などによって苦痛を抱えているとき、それを妨げる相手にいっそう怒りやすくなるとも分析する。さらに怒りには奇妙な性質がある。復讐そのものはまだ実現していなくても、復讐することを想像することによって一種の快が生じ得る。
つまりアリストテレスの怒りは、

苦痛 → 相手の認定 → 軽視の認識 → 復讐への欲求

という構造を持っている。

3.穏和――認識が変われば怒りも変わる

第3章 では、怒りと反対方向に働く「穏和」が分析される。
人は、自分の意思に反して行為した者、謝罪する者、悔いている者、自分を恐れている者などに対しては怒りが鎮まりやすい。また、相手が故意に侮辱したのではないと判断すれば、怒りの原因そのものが弱くなる。ここから分かるのは、アリストテレスにとって情念は固定したものではないということである。

相手についての認識が変われば、情念も変化する。

同じ出来事であっても、それを「故意」と見るのか、「過失」と見るのか、「やむを得なかった」と見るのかによって、人の怒りは同じではない。

4.友愛と憎しみ――怒りとは何が違うのか

第4章 では友愛と憎しみが扱われる。
友とは、相手にとってよいことを相手自身のために願い、互いにそのような関係にある者として説明される。そこからアリストテレスは、誰を人は友とするのか、どのような人間関係に友愛が成立するのかを列挙していく。
そして後半では憎しみが問題になる。
ここで特に重要なのが、怒りと憎しみは同じではないという区別である。
怒りは自分に対してなされた具体的な行為から生じ、相手に苦痛を与えることを求める。一方、憎しみは相手が「このような人間である」という認識からも生じ、より持続的で、相手そのものを否定する方向へ向かう。
この区別は、情念を単なる強弱ではなく、成立する認識構造の違いとして考えようとするアリストテレスの鋭さを示している。

5.恐れと大胆さ――まだ起きていないものへの情念

第5章  の「恐れ」は、怒りとは時間構造が異なる。
恐れとは、将来に起こり得る破壊や苦痛をもたらす悪を想像することによって生じる情念である。したがって、どれほど悪いことであっても、それが遠すぎたり、自分には起こらないと思っていたりすれば、恐怖は生じにくい。逆に危険が近づき、自分にも起こり得ると認識したとき、恐怖が成立する。そして恐れと対照的なのが大胆さである。
助けがある、危険を克服できる、これまで成功してきた、相手より自分の方が強い――そのような認識が大胆さを生む。

同じ未来について考えていても、「危険が迫っている」と認識するのか、「克服できる」と認識するのかによって情念が変わるのである。

6.恥・親切・憐れみ――情念は他者との関係から生まれる

第6章  の「恥」は、自分の行為が不名誉をもたらすという認識と深く関係している。しかも誰からどう見られても同じように恥ずかしいわけではない。自分が尊敬する人、評価を気にする人、競争相手など、「誰の眼差しなのか」が重要になる。
第7章  
では親切と不親切が扱われる。親切とは、相手から見返りを得るためではなく、困っている相手のためになされる援助として考えられる。
第8章 
の「憐れみ」も興味深い。人は誰にでも憐れみを感じるわけではない。不幸が自分や身近な者にも起こり得ると感じられること、しかもその不幸が不当に生じていると認識されることなどが関係する。

ここでも、 出来事そのもの → 情念ではない。

出来事を「自分にも起こり得る」「この人には不当に起きた」と認識することが、憐れみの成立に関係する。

7.義憤・妬み・競争心――他者の幸福をどう見るか

さらにアリストテレスは、他者の幸福を目にしたときに生じる情念まで細かく区別する。
第9章  
の義憤は、幸福そのものを嫌うことではない。幸福に値しない者が幸福を得ていると認識することによって生じる苦痛である。逆に、幸福に値する者が不幸になっていることへの苦痛が憐れみであり、この二つは対応関係を持つ。
第10章
  の妬みでは事情が違う。自分と似た立場にある者が利益や名誉などを得ていること自体が苦痛になる。そこには「相手がそれに値するか」という正義の判断が必ずしも必要ではない。
そして 第11章 の競争心では、他者が持っている価値あるものを見て苦痛を感じても、その方向が異なる。

相手から奪いたいのではなく、自分もそれを獲得したい。
この違いによって、妬みと競争心は区別される。
同じ「他者が価値あるものを持っている」という状況からでも、人間の認識と欲求の向かう方向によって、異なる情念が成立するのである。

8.アリストテレス情念論の特徴

こうして第2巻を眺めると、アリストテレスが行ったことは単なる感情の分類ではないことが分かる。

情念成立に関係する認識
怒り特定の相手から不当に軽視された
穏和相手には故意がない・悔いている等
友愛相手のために善を願う
憎しみ相手そのものへの否定的認識
恐れ将来の重大な害が自分に迫っている
大胆さ危険を克服できる
恥他者から不名誉と評価され得る
憐れみ不当な不幸が他者に生じ、自分にも起こり得る
義憤値しない者が幸福を得ている
妬み自分に近い他者が価値あるものを得ている
競争心他者が持つ価値あるものを自分も得たい

アリストテレスは、情念にはそれぞれ成立するための条件があることを、具体的な人間関係の中から取り出している。しかも怒りには相手、恐れには未来、恥には他者の評価、憐れみには不幸の可能性、義憤には相応しさの判断が関係する。
約2300年前に、ここまで情念を条件別に分解していたことは注目に値する。

9.凪原感情論理から見たアリストテレス

ここではアリストテレスを凪原感情論理へ無理に翻訳することはしない。
ただし、一つ重要な接点がある。
アリストテレスは、それぞれの情念について、

何が起きたのか。
それを人はどう認識したのか。
誰を原因と考えたのか。
将来をどう予測したのか。
何を善・悪と評価したのか。
そして何を欲したのか。

という異なる条件を分析している。
凪原感情論理が試みているのは、こうした条件を、事実・可能・価値などの命題認識として共通形式で記述できないかという問題である。
たとえば同じ被害でも、それが自然現象によるものなのか、他者の過失なのか、故意なのかによって怒りや憎悪は異なる。この問題を突き詰めれば、「他者の意図を人はどのように認識するのか」というさらに難しい問題にも行き着く。
しかし、それはアリストテレスの紹介を越える。

本稿では、アリストテレスが情念を単なる心の動きとしてではなく、それぞれ異なる成立条件を持つ現象として分析したことを確認するにとどめたい。

その成立条件を命題として統一的に記述できるかについては、凪原感情論理の章で改めて検討する。


事例現代日本語ならアリストテレスの分類との関係
「俺を侮辱した。思い知らせてやる」怒りorgē(怒り)に非常に近い
子供の危険ないたずらを叱る怒るorgē の定義からは外れる場合がある
他人への虐待を見て「許せない」義憤・怒りnemesis(義憤)とも完全には一致しない
「あいつを苦しめたい」怒り・憎悪orgē には復讐欲求が含まれる
「あいつなど存在しない方がいい」憎悪アリストテレスの憎しみに近い

注意すべきなのは、アリストテレスのいう orgē を、現代日本語の「怒り」とそのまま同一視できないことである。 日本語では、子供の危険な行為を叱ることや、第三者への不正を見て「許せない」と感じることも広く「怒り」と呼ばれる。しかしアリストテレスの orgē は、自分または自分に関係する者への不当な軽視と、それを行った特定の相手への復讐欲求を中心として、より限定的に定義されている。

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