
スピノザを読む前に、一頭のユニコーンを用意しよう
一本の角をもつ馬を「ユニコーン」とする。
この定義そのものに、さほど問題はないだろう。現実にそのような馬を見たことがなくても、「一本の角をもつ馬」という概念をつくり、それを「ユニコーン」と名づけることはできる。しかし、ここで一つ注意しなければならない。
「一本の角をもつ馬はユニコーンである」ことと、「ユニコーンが存在する」ことは同じではない。 前者は、「一本の角をもつ馬」という概念と「ユニコーン」という名称を結びつける定義である。ところが後者は、この世界のどこかに、その定義を満たすものが実際に存在する、という主張になる。いくらユニコーンの姿を詳しく定義しても、それだけで森の中からユニコーンが一頭歩いて出てくるわけではない。 この区別は、あまりにも当たり前に思える。
ところがスピノザの『エチカ』を開くと、その冒頭から少々様子が違ってくる。『エチカ』は通常の哲学書のように、ある問題について文章を重ねながら論じていく本ではない。「定義」「公理」「定理」「証明」を積み上げていく、いわゆる幾何学的秩序によって書かれている。國分功一郎も、この特殊な形式について、最初から読むと面食らうかもしれないという趣旨で紹介している。 そして第一部「神について」の最初に置かれているのが、「自己原因」という奇妙な概念である。スピノザは、**自己原因とは「その本質が存在を含むもの」**と定義する。ここで、先ほどのユニコーンが頭をもたげる。
概念を定義することと、その概念に対応するものが存在することとは別ではなかったのか。もちろん、スピノザも「神というものを定義した。したがって神は存在する」と単純に述べているわけではない。定義から公理へ、公理から定理へと論証を積み重ね、やがて定理11で、「神は必然的に存在する」 という結論へ到達する。では、その間に何が起きているのだろう。
その橋をスピノザはどのように架けたのか。そして、その橋は本当に渡ることのできる橋なのだろうか。まずは『エチカ』第一部の論証を、その出発点から追ってみたい。

定義された概念から、存在するものへ
先ほどのユニコーンでは、「一本の角をもつ馬をユニコーンとする」という定義から、「ユニコーンが存在する」という結論を導くことはできなかった。 では、スピノザはどうしたのだろう。『エチカ』第一部から、存在へ向かう一本の道筋だけを抜き出してみよう。
定義1 自己原因
自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。
『エチカ』はいきなり難物から始まる。普通のものは、その「本質」をいくら説明しても、それだけでは存在を保証されない。ユニコーンを「一本の角をもつ馬」とどれほど正確に定義しても、ユニコーンが実在することにはならない。ところがスピノザは最初に、**「その本質が存在を含むもの」**という特殊な概念を設定し、それを「自己原因」と名づける。ここではまだ、そのようなものが実際に存在すると証明されたわけではない。「そのようなものを自己原因と解する」という定義が置かれただけである。 問題は、この「存在を含む」という性質が、この先どのように働くかである。
定義3 実体
実体とは、それ自身のうちに在り、かつそれ自身によって考えられるもの、言いかえれば、その概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。
ここで「実体」が登場する。机を考えるには木材や形状など別の概念が必要になる。ところがスピノザの「実体」は、他の何かを持ってこなければ存在も理解もできないものではない。それ自身のうちに在り、それ自身によって考えられる。存在についても、概念についても、他者への依存を必要としないものとして設定されている。 ここで定義1の「自己原因」と定義3の「実体」が、まだ同一ではないことには注意しておきたい。スピノザはこのあと、この二つを論証によって結びつけていく。
公理7
存在しないと考えられうるものの本質は、存在を含まない。
短い。しかし重要な公理である。ユニコーンに当てはめれば分かりやすい。「ユニコーンは存在しない」と考えても、ユニコーンという概念そのものに矛盾は生じない。したがってユニコーンの本質には、存在は含まれていない。これを逆方向から見ると、スピノザがこれから証明しなければならないものも見えてくる。もし、あるものの本質そのものに存在が属すると示すことができれば、そのものを「存在しない」と考えることはできなくなる。ここで「定義」と「存在」の間に、橋を架ける準備が整い始める。
定理7
実体の本性には存在することが属する
ここで大きく動く。定義3では「実体とは何か」を定めただけだった。ところが定理7では、実体には存在することが属するという命題が登場する。 スピノザの論証を縮めれば、実体は他のものによって産出されるものではない。したがって実体は自己原因でなければならない。そして定義1によれば、自己原因とは「その本質が存在を含むもの」である。 したがって、 実体 → 自己原因 → 本質が存在を含む という連結が置かれる。ここが、われわれのユニコーンにはなかった部分である。ユニコーンには、 ユニコーン → 自己原因 → 本質に存在を含む という橋はない。スピノザは「定義したから存在する」と言っているのではなく、実体というものの性格をたどれば、その本性から存在を切り離せないと論証しようとしているのである。さて、この橋は本当に渡れるのだろうか。 それはまだ保留しておこう。
定理11 神は必然的に存在する
そして、ついに目的地へ到達する。
神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は、必然的に存在する。
定義6でスピノザは神を「絶対に無限な実有」、すなわち無限に多くの属性から成る実体として規定していた。そして、すでに定理7で、実体の本性には存在することが属する としている。 そこで「神は存在しない」と仮定してみる。 公理7によれば、存在しないと考えられるものの本質は存在を含まない。しかし神は実体であり、定理7によれば実体の本性には存在が属する。
すると、神の本質は存在を含まない と 神の本質は存在を含む が同時に成立してしまう。矛盾である。したがってスピノザは、神は必然的に存在する。Q.E.D.(以上、証明終わり)と結論する。では、ユニコーンと何が違ったのか ここまで来ると、少なくとも一つのことは分かる。スピノザは、「神を定義した。だから神は存在する」という単純な論法を使ったわけではない。彼は、
定義1「自己原因」
→ 定義3「実体」
→ 公理7 存在しないと考えられうるものの本質は、存在を含まない。
→ 定理7「実体の本性には存在が属する」
→ 定理11「神は必然的に存在する」
という論証の鎖を用意している。したがって、冒頭のユニコーンを持ち出して、「ユニコーンを定義しても存在しない。だからスピノザも間違いだ」と片づけることはできない。むしろ問題は、ここからである。なぜ「実体」だけは、その本性から存在を導くことができるのか。そして、「他によって産出されない」ことから「自己原因である」へ進み、さらに「本質が存在を含む」へ進む論証は、本当に成立しているのか。
ユニコーンは消えたのではない。月夜の崖の上から、まだこちらを見ている。
神が存在した。では、この世界に「偶然」は残るのか
定理29 自然のうちには一として偶然なものがなく、すべては一定の仕方で存在し。作用するように神の本性の必然性から決定されている。
ここまでスピノザは、「自己原因」「実体」という概念から出発し、ついには神が必然的に存在するというところまで論証を進めてきた。しかし『エチカ』第一部の仕事は、それで終わらない。神が唯一無限の実体であり、あらゆるものが神の本性から生じるのであれば、私たちが日常的に使っている「偶然」「可能」「目的」「善い」「悪い」といった言葉は、いったいどうなるのだろうか。 ここからスピノザは、私たちの常識に対してかなり大胆な攻撃を始める。
自然の中に「偶然」は存在しない
定理29でスピノザは、自然の中には偶然的なものは何一つなく、すべては神の本性の必然性によって一定の仕方で存在し、作用するよう決定されている、とする。そして定理33ではさらに、事物は神によって、現実とは別の仕方・別の秩序では産出されえなかった、とまで進む。これは相当に強い主張である。 われわれは普通・・・ 「明日は雨が降るかもしれない」
「この石は落ちるかもしれないし、落ちないかもしれない」
「私はAを選ぶこともBを選ぶこともできる」
と考える。 ところがスピノザから見れば、それは世界そのものに複数の未来が開かれていることを意味しない。われわれが原因の全系列を知らないために、何が起こるか分からないだけなのである。
したがって「偶然」とは、世界の性質ではない。世界についてのわれわれの認識が不完全であることを表す言葉なのである。ここでスピノザは、「可能性」を世界の側から人間の認識の側へと移してしまう。
落ちてきた石は、なぜその人を殺したのか
定理33 物は現に産出されているのと異なったいかなる他の仕方、いかなる他の秩序でも神から産出されることができなかった。
第一部付録になると、スピノザは突然、われわれにも非常に分かりやすい例を出す。屋根から石が落ちてきて、ある人の頭に当たり、その人が死んだとしよう。普通なら「不運な事故だった」と言って終わるかもしれない。ところが、「すべてには目的がある」と考える人は、そこで止まらない。
なぜ石は落ちたのか。
――風が吹いたからだ。
なぜその人は、ちょうどそこを通ったのか。――友人に招かれていたからだ。では、なぜその時に風が吹いたのか。なぜ友人はその時に彼を招いたのか。 こうして「なぜ」を繰り返していけば、最後には分からないところへ到達する。そして人は、そこで「神の意志」を持ち出す。スピノザは、こうした説明を人間が無知を隠すための「避難所」にしていると批判する。
この落石事故は、定理33の抽象的な必然論を日常世界へ持ってきた例として読むと分かりやすい。スピノザにとって、
石が落ちたこと
風が吹いたこと
その人がそこを歩いていたこと
友人が彼を招いたこと

これらには、それぞれ原因がある。われわれがその原因系列を全部知らないから「偶然の事故」と呼んでいるだけで、自然そのものに「偶然」という特別な力が働いたわけではない。ここまで来ると、スピノザが第一部で何をしようとしているのかがかなり見えてくる。
「何のために?」を自然から追放する
しかしスピノザの攻撃対象は偶然だけではない。 人間は自分の欲求を知っているが、その欲求を生じさせた原因を知らない。そのため、自分は自由に目的を設定して行動していると思い込みやすい。そして、この自分自身についての理解を、そのまま自然や神にまで投影してしまう。
「目があるのは見るためだ」
「歯があるのは噛むためだ」
「太陽は人間を照らすためにある」
という具合である。さらに自然界に便利なものがあれば「神が人間のために用意した」と考え、災害や病気など都合の悪いものがあれば、神の意図や人間の罪などによって説明しようとする。 スピノザは、このような目的論そのものをひっくり返す。 自然が目的に向かって動いているのではない。自然は原因によって生じている。 ここでも第一部の必然性が効いている。神自身が目的を選択し、その目的を達成するために世界を作ったのではない。すべては神の本性の必然性から生じるのである。
ところが、ここから「価値」が出てくる
人間は自分にとって役立つものを求める。そして、自分たちの欲求や利益を基準にして自然を判断するようになる。 すると、役に立つものを善、害するものを悪、と呼ぶようになる。 さらに人間は、自分の感覚や想像力に応じて、自然について「秩序」「混乱」「美」「醜」などの評価を行う。スピノザは、こうした概念を自然それ自体の属性としてではなく、人間の側から生じた判断として扱っている。第一部付録では、善悪だけでなく、功罪、秩序・混乱、温冷、美醜などが人間の判断から形成されるという方向へ議論が進む。ここは重要である。
スピノザは「価値」というものを完全に消してしまったわけではない。 むしろ、 自然そのものには、人間のための目的も善悪もない。
しかし人間は、自分の欲求・利益・身体的状態との関係から、善悪その他の価値判断を形成する。 という位置へ価値を移しているように見える。これは、後に情念を読むときにもう一度戻ってくる問題になるだろう。 神の絶対性から、人間の情念へ
こうして第一部後半を眺めると、一見すると遠回りに見えた議論が、少しずつ人間の情念へ近づいている。
神は唯一無限の実体である。
↓
すべては神の本性から必然的に生じる。
↓
したがって自然そのものに偶然はない。
↓
自然は目的のために動いているのでもない。
↓
人間もまた、この自然の外にいる特別な存在ではない。
↓
それでも人間は欲求し、善悪を判断し、喜び、悲しみ、愛し、憎む。
では、それはなぜなのか。
ここでようやく、われわれがスピノザを読もうとした本来の目的が見えてくる。
第一部でスピノザが行ったのは、いわば情念論のための地ならしだったのではないだろうか。
① 偶然によって説明しない。② 目的によって説明しない。③ 自由意志という正体不明の力によっても説明しない。
その条件のもとで、
人間はなぜ、あるものを求め、あるものを避けるのか。
なぜ喜び、悲しみ、愛し、憎むのか。
その問いに答えるために、この先でコナトゥス、能動と受動、そして情念が登場する。
「これは物理学なのか?――スピノザが人間を『物体』から組み立てる理由」
| スピノザ第2部の物体論 | 近代物理学 |
| 運動・静止で物体を区別 | 運動を定量的に記述 |
| 物体間の作用を重視 | 力・質量・加速度などで記述 |
| 複合個体の構成維持を重視 | それ自体はニュートン力学の中心問題ではない |
| 目的=人間身体・精神の説明 | 目的=物体運動の普遍的法則化 |
| 第3部の情念論への基礎 | 情念論を目的としない |
スピノザはなぜ「物体」から始めるのか
ここでスピノザが目指しているのは、現代的な意味での運動法則を完成させることではない。重要なのは、人間の身体もまた自然の一部であり、他の物体から作用を受けながら、それでも一定の構成を保つ「個体」であるという考え方である。人間も自然の外にいる特別な存在ではない。身体は外界から絶えず作用を受け、変化する。そして、その身体の変化は精神における観念と結びついている。こうして第2部の物体論は、第3部で本格的に展開される情念論への準備となる。
したがって本稿では、スピノザの運動論を物理学として逐一検討するのではなく、**「身体はいかに一つの個体として存在し、外界との関係の中で変化するのか」**という点に注目する。ここから、やがてコナトゥスと情念の問題へ進んでいく。コナトゥスについては定理6にて。
第二部――神=自然の中で、人間はどこにいるのか
第一部でスピノザは、神を世界の外にいる創造者としてではなく、唯一無限の実体として捉え、すべてのものがその必然性のもとに存在するという巨大な世界像を描いた。では、その世界の中で人間とは何なのか。第二部「精神の本性および起源について」は、この問いに答える章として読むと見通しがよくなる。
人間だけが自然の外側に立ち、自由な精神によって世界を眺めているのではない。人間もまた自然の一部であり、身体をもち、その身体を通して世界とかかわり、その世界を認識している。複雑な第二部の中から、その流れを示す三つの地点を取り上げてみよう。
- 精神は身体から切り離された存在ではない
第二部前半の重要な地点が定理13 である。
「人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。」「延長の様態」という言葉に戸惑うが、ここではまず、現実に存在する身体と考えて読み進めればよい。スピノザは、人間精神を自然から切り離された特別な存在として出発させない。精神が対象としているのは、現実に存在する身体なのである。
ここから第二部の一見奇妙な展開が始まる。精神について論じていたはずなのに、突然、物体、運動と静止、単純物体、複合個体といった議論が延々と続く。なぜなのか。精神の対象が身体ならば、人間精神を理解するためには、まず身体とはどのような存在なのかを説明しなければならないからである。そこでスピノザは、人間身体も他の物体と同じ自然の中に存在し、外部から作用を受けながら、それでも一定の関係を維持して存在する個体として捉えていく。したがって、ここでの物体論は独立した「スピノザ物理学」を完成させるためというより、後に人間の精神、そして情念を説明するための足場として読むと、その位置が分かりやすい。
2.その人間は、世界をどのように知るのか――三種類の認識
身体をもつ人間を自然の中に置いた後、問題は**「その人間は世界をどう認識するのか」**へ進む。第二部後半、定理40の備考二で、スピノザは認識を三種類に整理する。
第一は、第一種の認識――意見または表象である。感覚を通して個々の事物を知覚すること。そして言葉などの記号から物を想起すること。この二つが第一種の認識にまとめられる。これはわれわれに最も身近な認識である。見る。聞く。経験する。言葉を聞いて何かを思い出す。しかし、この認識は個々人の身体的経験に依存し、断片的・混乱的になりうる。
第二は、第二種の認識――理性である。ここでは個別の経験だけを見るのではなく、事物に共通するもの――「共通概念」や妥当な観念によって世界を理解する。
そして 第三に、第三種の認識――直観知が置かれる。神の属性の本質についての妥当な観念から、個々の事物の本質についての認識へ進む、スピノザにおける最も高度な認識である。つまり人間は、単に目の前に現れた世界を受け取っているだけではない。経験し、表象し、さらに理性によってその背後にある関係を認識することができる。第二部はここで、身体をもつ自然的存在としての人間から、世界を理解する存在としての人間へ進んでいる。
3.理性は世界を「必然」として見る――定理44
そして第一部と第二部を再び結びつける重要な地点が定理44である。「事物を偶然としてでなく必然として観想することは理性の本性に属する。」われわれの日常経験では、「こうなるかもしれない」
「別の結果になったかもしれない」と物事を考える。しかし第一部で描かれたスピノザの自然には、本来、原因なしに生じる出来事はない。第一部についてまとめた際にも、「偶然」とは世界そのものの性質ではなく、人間が原因の連鎖を十分に知らないためにそう見える、という方向を確認した。
第二部では、この必然性が今度は人間の認識の側から捉え直される。理性によって十分に理解するということは、事物を孤立した偶然の出来事として見るのではなく、原因と結果の必然的な関係の中で理解することである。そして定理44の系では、理性が事物を**「ある永遠の相のもとに」**認識するという方向へ進む。ここで第一部と第二部がつながる。第一部――世界は必然的秩序の中にある。そして、第二部――人間の理性には、その世界を必然的なものとして認識する能力がある。という構造である。そして第三部へ――第二部は「橋」であるこうして見ると、第二部の役割はかなり明確になる。
第一部 神=自然とは何か
↓
第二部 その自然の中にいる人間とは何か。そして人間は世界をどう認識するのか
↓
第三部 その人間に、なぜ欲望・喜び・悲しみ・愛・憎しみなどの情念が生じるのか第二部だけを読むと、途中の物体論や認識論が入り組み、何を目指しているのか見失いやすい。

第二部は、第一部の神=自然の世界に人間を配置し、第三部の情念論へ渡す橋である。
第三部01――情念を「幾何学」にする人間の愚行まで証明できるのか
『エチカ』第三部「感情の起源および本性について」に入ると、スピノザは最初にかなり大胆な宣言をする。
「私が人間の欠陥や愚行を幾何学的方法で取り扱おうと企てること、また理性に反した空虚な、不条理な、厭うべきものとして彼らの罵る事柄を厳密な推論で証明しようと欲することは、疑いもなく奇異に思えるであろう。」
ここには第三部全体を読むための鍵がある。怒り、憎しみ、嫉妬、恐怖などについて、人はしばしば「あの人は愚かだから」「理性を失ったから」「性格が悪いから」と評価する。しかしスピノザは、そうした人間の情念を非難する前に、なぜその感情が生じるのかを自然の因果関係として説明しようとする。線や面や立体を幾何学で研究するように、人間の愛や憎しみについても、その成立条件を明らかにできるのではないか。第三部で延々と続く「定理○○によって、彼は喜ぶであろう」「したがって彼は憎むであろう」という独特の論証は、この最初の宣言を実行したものなのである。
能動と受動――人間はいつ自分自身の原因なのか
その準備としてスピノザは、「能動」と「受動」を区別する。自分自身の本性から十分に説明できる出来事については、人間はその出来事の妥当な原因であり、能動的である。反対に、自分だけでは十分に説明できず、外部原因によって大きく左右される場合、人間は受動的である。ここで重要なのは、受動とは「じっと何もしない」という意味ではないことである。
激しく怒り、叫び、走り回っていても、その感情が外部原因によって支配されているなら、スピノザの意味では受動的であり得る。この区別が、後に「情念に支配される人」と「理性によって能動的になる人間」という問題へつながっていく。
定理6――コナトゥスの登場
そして第三部の重要な転換点が定理6である。
定理6 おのおのの物は、自己の及ぶ限り、自己の存在に固執しようと努める。ここで登場する「努め」が、一般に**コナトゥス(conatus)**と呼ばれるものである。石でも植物でも動物でも人間でも、存在するものは、自らの存在を維持し続けようとする。これは「生きたいと思う」という人間の心理だけを意味しない。もっと根源的に、存在しているものが、その存在を維持しようとする傾向そのものを指している。さらに定理7でスピノザは、この考えを一段強める。※コナトゥスという語そのものをスピノザが発明したわけではない。ホッブスら17世紀の思想家にも先行する用例がある。しかしスピノザは、この概念を単なる運動論にとどめず、「自己の有に固執する努力=個物の現実的本質」という存在論的原理へと押し広げた。
定理7 各々の物が自己の存在に固執しようと努める努力は、その物の現実的本質にほかならない。つまりコナトゥスは、その物に後から付け加えられた性質ではない。存在し続けようとすることそのものが、その存在者の本質である。第三部の情念論は、このコナトゥスを土台として展開されていく。定理6・7の後、スピノザはこの自己保存への努力を精神と身体へ結びつけ、やがて欲望、喜び、悲しみへ進んでいく。スピノザの三つの基本感情
そして219頁付近で、スピノザは情念体系の基本となるものをはっきり示す。欲望・喜び・悲しみである。しかもスピノザは、この三つ以外の基本的感情を認めず、その他の感情はこれらから生じるとする。ここはデカルトと比較すると非常に面白い。デカルトの基本六情念は、驚き・愛・憎しみ・欲望・喜び・悲しみだった。ところがスピノザでは、そのうち欲望・喜び・悲しみだけが基本として残る。例えば愛と憎しみは、後に、愛=外部原因の観念を伴った喜び
憎しみ=外部原因の観念を伴った悲しみとして組み立てられる。つまりスピノザは、愛や憎しみを最初から独立した基本感情とはしない。喜び+「何がその喜びを生じさせたか」という観念 → 愛悲しみ+「何がその悲しみを生じさせたか」という観念 → 憎しみという形で、基本感情から派生させるのである。
第三部の設計図
ここまでを一本につなぐと、第三部の構造が見えてくる。情念も自然現象として論理的に説明できる
↓
人間には能動と受動がある
↓
あらゆる存在者には自己の存在に固執しようとするコナトゥスがある
↓
コナトゥスはその存在者の現実的本質である
↓
人間では欲望・喜び・悲しみが基本感情となる
↓
そこから愛・憎しみをはじめ、多数の情念が派生していくこうして見ると、第三部は単なる「感情のカタログ」ではない。スピノザが目指しているのは、ごく少数の原理から、人間の複雑な情念世界を幾何学的に組み立てることである。これから第三部を読み進めると、「ある人を愛する」「その人を害する者を憎む」「憎しみが愛へ変化する」といった複雑な情念が、次々と既出の定理から導かれていく。その長い情念幾何学の出発地点に置かれているのが、コナトゥス そして
欲望・喜び・悲しみなのである。

驚異――スピノザは「驚き」をどう扱ったのか
第三部定理52から備考にかけて、スピノザは**「驚異」**という興味深い概念を取り上げる。
定理52では、以前に他のものと一緒に見たことのある対象について、その対象に何か特殊な点があると考えない限り、人間はそれを長く観想し続けないとされる。そして備考では、ある対象の表象によって精神が強く拘束され、他のものを考えることができなくなる状態が「驚異」と呼ばれる。
ここで重要なのは、スピノザが驚異それ自体を基本的な情念とはしていないことである。驚異は精神の特殊な状態であり、それが恐れる対象について生じれば「驚愕」となり、人間の賢明さなどについて生じれば「尊敬」などへ展開していく。さらに驚異が喜びや悲しみなどと結びつくことによって、さまざまな情念が生じる。
ここはデカルト『情念論』との比較が面白い。デカルトの驚きと何が違うのか?デカルトは驚き・愛・憎しみ・欲望・喜び・悲しみを六つの基本情念として位置づけ、とりわけ「驚き」は他の五情念とは異なり、反対となる情念を持たないものとして扱った。これに対してスピノザでは、基本となる情念は欲望・喜び・悲しみであり、「驚異」はそこには含まれない。むしろ、ある対象の表象に精神が拘束されてしまうという、認識・注意にかかわる特殊な状態として説明される。
| デカルト「驚き」 | スピノザ「驚異」 |
|---|---|
| 六つの基本情念の一つ | 基本三情念には含まれない |
| 新奇な対象などに精神が突然向けられる | 一つの対象表象に精神が拘束される |
| 反対となる情念を持たない | 「軽蔑」が対置される |
| 驚きそのものが情念 | 驚異それ自体は情念ではない |
| 愛・憎しみ等と並ぶ基本分類 | 喜び・悲しみ等と結びつき諸情念へ展開 |
ここは現代の感覚から読むと、少々驚かされる。
普通なら「驚異」の反対がなぜ「軽蔑」なのか、すぐには理解しにくい。しかしスピノザの説明を追うと、彼が日常語の感情的な反対関係を問題にしているのではないことが分かる。驚異では、一つの対象の表象によって精神が拘束され、他のものを考えられなくなる。これに対して軽蔑では、ある対象を見ても、精神はそこに自分を拘束するようなものを見いださず、むしろその対象にないものへと注意を移していく。スピノザはこの意味で、軽蔑を驚異に対立する状態として説明している。
したがって、
驚異=精神がその対象に釘付けになる
軽蔑=精神がその対象に留まらず離れていく
という対照なのである。これはデカルトとのかなり鮮明な違いである。
デカルトが「驚き」を人間の基本情念の一つとして取り出したのに対して、スピノザはそれを基本情念から外し、精神が対象をどのように表象し、そこへどのように拘束されるかという構造から説明し直している。 一見すると「驚異の反対が軽蔑?」とこちらが驚異を感じるところだが、スピノザの定義に従って読むと、それなりに一貫した構造になっているのである。
諸感情の定義
以下はスピノザ自身による三分類ではなく、『諸感情の定義』を基本三情念との関係が見えやすいよう本稿で再配置したものである。右側の短文も原文の引用ではなく、定義内容を簡略化したものである。
| 欲望・努力を軸とする情念 | 喜びを軸とする情念 | 悲しみを軸とする情念 |
| 1 欲望―行動へ向かう衝動 | 2 喜び―完全性の増大 | 3 悲しみ―完全性の減少 |
| 32 思慕―不在物への欲望 | 6 愛―原因を伴う喜び | 7 憎しみ―原因を伴う悲しみ |
| 33 競争心―他人にならう欲望 | 8 好感―偶然から生じる愛 | 9 反撥―偶然から生じる憎しみ |
| 34 感謝―恩に報いる努力 | 10 帰依―驚異を伴う愛 | 11 嘲弄―嫌悪対象への喜び |
| 35 慈悲心―他者を助ける欲望 | 12 希望―不確かな喜び | 13 恐怖―不確かな悲しみ |
| 36 怒り―憎む者を害す努力 | 14 安堵―疑いの消えた喜び | 15 絶望―疑いの消えた悲しみ |
| 37 復讐心―害に報いる努力 | 16 歓喜―過去についての喜び | 17 落胆―過去についての悲しみ |
| 38 残忍―他者を害する欲望 | 19 好意―他者への愛 | 18 憐憫―他者への悲しみ |
| 39 臆病―害を避けようとする欲望 | 25 自己満足―自己への喜び | 20 憤慨―他者の悪への憎しみ |
| 40 大胆―危険へ向かう欲望 | 30 名誉―称賛による喜び | 23 ねたみ―他者の幸福への悲しみ |
| 41 小心―恐れるものを避ける | 21 買いかぶり―他者を過大評価 | 27 後悔―自己行為への悲しみ |
| 42 恐慌―恐怖から逃れようとする | 24 同情―他者への好意 | 29 自卑―自己を過小評価 |
| 43 鄭重・礼譲―人を喜ばせる欲望 | 28 高慢―自己を過大評価 | 31 恥辱―非難による悲しみ |
| 44 名誉欲―名誉への過度な欲望 | 26 謙遜―自己の弱さへの悲しみ | |
| 45 美味欲―食への過度な欲望 | 22 見くびり―他者を過小評価 | |
| 46 飲酒欲―酒への過度な欲望 | ||
| 47 貪欲―富への過度な欲望 | ||
| 48 情欲―性交への過度な欲望 |
基本三情念とは別に扱われる「驚異」と「軽蔑」
| 概念 | 簡略化すると | 位置づけ |
|---|---|---|
| 4 驚異 | 一つの対象に精神が釘付け | それ自体では情念ではない |
| 5 軽蔑 | 対象から注意が離れる | 驚異に対置される |
こうして一覧すると、スピノザの情念幾何学の構造が見えてくる。欲望・喜び・悲しみという少数の基本情念に、外部原因、時間、不確実性、自己と他者などの条件が加わることによって、多数の個別情念が導かれていく。48の定義は単なる「感情の辞典」ではなく、少数の原理から複雑な情念世界を組み立てようとした第三部の到達点と見ることができる。
第四部――定理28までの全体像
人間は自己保存を目指して生きる存在だが、自然全体の中では弱い一部分にすぎず、外部原因によって容易に感情を動かされる。理性による善悪の認識だけでも、それを簡単には制御できない。しかし自己保存の力を高め、よりよく認識することが「徳」である。
序文~定義・公理――「隷属」と善悪 第四部冒頭でスピノザは、感情を統 御・抑制できない人間の無能力を「隷属」と呼ぶ。
つまり第四部は「情念とは何か」だった第三部から一歩進んで、なぜ人間は情念に振り回されるのかを扱う。 善=自分に有益であると確実に知るもの、悪=善を所有する妨げになると確実に知るものという、かなり機能的な定義。スピノザの「善」は、道徳的な「~すべきだ」という規範当為より、まず自己の存在・活動能力にとって有益かどうかである。
定理1~13――人間は外部原因に勝てないここが第四部の土台。
人間は自然の一部であって、自然全体から独立した存在ではない。したがって、人間自身の力を上回る外部原因が必ず存在する。感情も外部原因によって強化されれば、こちらの理性だけでは簡単に消せない。人間が感情に従属する力は、人間自身の力だけではなく、外部原因の力との比較によって決まる。
- 定理14~18――「分かっているのに、できない」ここは前半で最も実生活に近いところ。定理14以降では、善悪について真に認識しているというだけでは感情を抑制できないとされる。別の、より強い感情として働いた場合に初めて感情に対抗できる。
- 定理18~22――自己保存=徳の基礎
ここからコナトゥスが前面に戻ってくる。スピノザは、人間が自己の存在を維持しようとする努力を非常に強く肯定する。自己の有を維持することは徳の第一かつ唯一の基礎というところまで進む。自己保存 → 自己の活動能力を高める → 徳である。
「自殺」について
定理20備考では、スピノザは自殺についてかなり明確に述べている。自殺する者は、「外部の諸原因によって征服され」「自己の本性と矛盾する外部原因によって全く征服されている」と説明。さらに刃物で自殺する例も、外部原因によって身体がそのような状態に置かれた結果として説明している。スピノザはここで自殺を防ぐ方法を論じているのではなく、自殺という現象を自分のコナトゥス論と矛盾しないよう説明している。「すべての存在は自己保存を求める」というなら、では、なぜ自殺する人間がいるのか?という反例が当然出てくる。それに対して、本性そのものが自己破壊を欲したのではない。外部原因が本人の自己保存力を凌駕したのである、と処理している。
- 定理23~28――理性・認識こそ人間の力を高める最後に「では人間にとって本当に有益なものは何か」へ進みます。理性によって行為すること、理解することが人間の本性に適合し、定理26では理性に基づく努力は認識することだけに向けられるとされる。
そして定理28で、精神の最高の善は神の認識であり、精神の最高の徳は神を認識することであるに到達する。ここは突然「神」が出てきたように見えますが、スピノザでは神=自然という体系があるから、自己保存 → 活動能力 → 理性 → 認識 → 最高の認識=神/自然の認識 という一本の線である。
第四部02――理性的人間と「憐憫は悪」という逆説
第四部の定理29以降では、スピノザの議論は個々の人間の感情から、人間同士の関係、社会、そして「どの感情が善く、どの感情が悪いのか」という問題へ進んでいく。ここでも判断基準は日常的な道徳感情ではない。
第三部で示されたコナトゥス(自己の存在を維持しようとする努力)と、欲望・喜び・悲しみという基本情念から、かなり徹底して演繹されていく。その特徴が最も鮮明に現
れるのが、後半に登場する「憐憫」である。人間相互の一致――定理29~37スピノザによれば、人間は単に「同じ人間だから」という理由で一致するわけではない。情念に支配されている限り、人間同士は互いに対立することがある。これに対して、理性の導きに従って生きる人間は、本性上互いに一致する。定理35では、理性に従って生活する限り、人間は必然的に本性上常に一致するとされる。そして定理36では、徳に従う人が自分のために求める最高の善は、すべての人に共通するものであり、すべての人がそれを享受できるとされる。したがって、スピノザにおける理性的生活は、孤立した個人の自己保存ではない。
自己保存への努力
→ 理性による認識
→ 他者との一致
→ 共通の利益・社会という方向へ進む。人間にとって最も有益なのは人間であり、人間同士が理性によって一致することが、個人の力をも増大させるのである。
身体の能力と人間社会――定理38~40
定理38以降では身体の問題が入ってくる。身体が多くの仕方で刺激され、また外部の物体に多くの仕方で働きかける能力を持つことは善である。反対に、その能力を減少させるものは悪である。そして定理40では、人間の共同社会を形成する方向に働くものは有益=善であり、不和をもたらすものは悪であるとされる。ここまで来ると、第四部でいう「善」「悪」の意味がかなり明確になる。善悪とは、外部から与えられた道徳的な賞罰ではない。人間の活動能力を増大させるか、減少させるか。
人間同士の一致を促進するか、妨げるか。この方向から判断されているのである。感情そのものが「善・悪」の判定を受ける定理41以降になると、第三部で分析されたさまざまな感情が、今度は善悪という観点から次々に再評価される。喜びはそれ自体として善であり、悲しみはそれ自体として悪である。愛や欲望、憎しみ、希望、恐怖、後悔などについても、同じ基本原理から評価が進められる。たとえば憎しみは決して善ではない。憎しみを憎しみによって返すのではなく、愛あるいは寛大さによって克服すべきだとされる。希望や恐怖も、それ自体では完全な善ではない。そこには不確実性に由来する悲しみが伴うからである。ここには第三部以来のスピノザの方法がそのまま現れている。
コナトゥス
↓
欲望・喜び・悲しみ
↓
個別の感情
↓
活動能力の増大・減少
↓
善・悪
という一つの体系として感情が処理されているのである。そして、この方法を最も分かりやすく、同時に最も「本当にそうなのか?」と思わせる形で示すのが、定理50の憐憫である。なぜ「憐憫」は悪なのか定理50でスピノザは、理性の導きに従って生活する人において、憐憫はそれ自体として悪であり、無用であるとする。現代の日常感覚からすると、かなり奇妙に聞こえる。困っている人を見て憐れむことは、むしろ人間の善良さを示す感情ではないのか。しかし、スピノザの体系から見ると結論はほとんど自動的に出てくる。
| 段階 | スピノザの論理 |
| ① | 憐憫とは、他人の不幸から生じる悲しみである |
| ② | 悲しみは、人間の活動能力を減少させる |
| ③ | 活動能力を減少させるものは悪である |
| ④ | したがって、憐憫それ自体は悪である |
つまり、憐憫 → 悲しみ → 活動能力の低下 → 悪なのである。
ここで重要なのは、スピノザが**「他人を助けることは悪い」**と言っているのではないことである。むしろ備考では、理性の導きに従って生活する者は、できるだけ憐憫に動かされないようにしながら、理性の指図だけによって他人を助けようと努力すると説明する。そして次の定理51では「好意」は理性に反しないとされる。ここには非常にスピノザらしい区別がある。「かわいそうだから助ける」ことと、「その人を助けることが理性にかなうから助ける」ことは同じではない。行為としては同じ「救助」であっても、その原因となる感情をスピノザは分離して考える。「憐憫は悪」は、スピノザの情念論をよく表しているこの定理が興味深いのは、結論そのもの以上に、なぜその結論になったのかという点にある。
第三部でスピノザは、多数の感情を欲望・喜び・悲しみという基本情念から説明した。第四部では、その体系を途中で放棄せず、善悪の評価にまで適用している。そのため、日常感覚では「善い感情」と考えられやすい憐憫であっても、憐憫は悲しみであるという定義から出発した以上、悲しみ → 活動能力の減少 → 悪という結論を避けにくい。
これは、スピノザの体系の強さであると同時に、その独特さが最もよく見えるところでもある。「憐憫は本当に悪なのか」という問いよりも、「なぜスピノザの体系では、憐憫まで悪になってしまうのか」と問う方が、第四部を理解するには面白い。
そこには、常識的な感情評価から出発するのではなく、コナトゥスと基本情念から一貫して人間の感情を演繹しようとするスピノザの方法そのものが現れているからである。
第四部03――理性に従って生きる「自由な人間」
第四部後半、定理60~73では、これまで論じられてきた情念の支配から一歩進み、理性に従って生きる人間とはどのような人間なのかが描かれる。第三部では、人間の感情が欲望・喜び・悲しみを基本としてどのように形成されるかが論じられた。
第四部前半から中盤では、人間が外部原因と情念に支配される「隷属」の状態と、それに対する理性の働きが検討された。そして第四部後半では、その到達点として**「自由な人間」**が登場する。
- 理性から生じる欲望――定理60~66
スピノザにとって、単に欲望をなくすことが理性的生活なのではない。問題なのは、その欲望が受動的な感情から生じているのか、それとも理性から生じているのかである。定理61では、理性から生じる欲望は過度になることがないとされる。また定理62では、精神が理性に従って物事を把握する限り、過去・現在・未来の区別によって認識そのものが変わるわけではないとされる。
そして定理65~66では、理性の導きに従う者は、二つの善のうちより大きな善を選び、二つの悪のうちより小さな悪を選ぶ。また現在の小さな利益だけではなく、未来を含めて判断する。
ここで描かれる理性的人間とは、情念を完全に消した人間というより、目の前の感情だけに支配されず、自分にとって何がより有益なのかを広い視野から判断できる人間と見ることができる。
2.「自由な人間は死について最も少なく考える」――定理67
後半でもっとも印象的な定理の一つが定理67である。スピノザは、自由な人間は何ものについても死より少なく考える。そして彼の知恵は死についての省察ではなく、生についての省察である。とする。これは第四部前半で扱われた自殺の問題とも対照的である。自己保存を本性とする人間が、理性によって自己の活動能力を高めて生きるならば、その中心にあるのは「どう死ぬか」ではなく**「どう生きるか」**になる。スピノザのコナトゥス論が、ここでは一つの生き方として表現されている。
- 自由な人間とは何か――定理68~73
定理68以降では、「自由な人間」の性格が具体的に描かれていく。自由な人間は、単に好き勝手に行動する人間ではない。むしろ理性の導きに従って行動する人間である。定理69では、自由な人間は危険を避けることにも、それを克服することにも同じ徳を示すとされる。定理70では、無知な人々から与えられる利益を慎重に避けようとする。そして定理71では、自由な人々だけが互いに最も深い感謝を持つとされる。さらに定理72では、自由な人間は決して欺瞞的に行動せず、常に誠実に行動するとされる。そして最後の定理73では、一見すると逆説的な結論に到達する。理性に導かれる人間は、孤独の中よりも、共通の法律に従って生活する国家の中において、より自由である。つまりスピノザの「自由」は、束縛がないこと=自由ではない。むしろ、情念に支配されない
→ 理性に従う
→ 他者と協力する
→ 共通の法律のもとで生活する
→ その中で自己の能力を十分に発揮することが自由なのである。
第四部中盤で「理性に従う人間ほど互いに一致する」とされた議論が、ここで社会・国家の問題までつながってくる。
付録32項――第四部を生活原則にまとめ直す
定理73で第四部の証明は終了する。そのあとに置かれた32項の付録は、新しい理論を展開するというより、第四部で証明してきた内容を、実際の人間生活という観点から再整理したものと考えると分かりやすい。冒頭でスピノザ自身が、これまで述べた内容は各所に散在しているため、それらをまとめて見渡せるようにしたい、と説明している。
その内容は大きくまとめると、
理性と最高善/感情の支配/人間相互の協力/社会生活/自己保存/他者への態度
といった第四部全体の主要テーマを再確認するものになっている。
たとえば、人間にとって何より有益なのは人間であり、人間相互が理性の導きに従って生活することが望ましいとされる。また社会を維持するためには、人間同士の関係を調整する共通の制度や法が必要になる。
後半では、結婚、社会生活、謙遜、名誉、身体の維持など、かなり具体的な生活問題まで扱われる。身体についても、多様な食物を摂取し、身体の諸部分がさまざまな働きをできるよう維持することが有益だとされている。
そして最後の第32項では、人間の能力には限界があり、外部原因の力を完全に支配することはできないという第四部冒頭以来の現実認識へ戻る。それでも、自分に起こる出来事を自然全体の秩序の中で理解し、理性によって受け止めるならば、精神のよりよい部分は満足を保つことができる、として第四部を閉じる。
第四部全体を振り返ると
第四部は第三部ほど個々の情念についての鮮烈な記述は少ない。しかし全体を通して見ると、一つの方向はかなり明確である。
コナトゥス(自己保存)
→ 情念による隷属
→ 善悪=活動能力との関係
→ 理性
→ 人間相互の一致
→ 社会
→ 自由な人間
という流れである。第三部が**「人間の感情はどのようにできているのか」**を幾何学的に組み立てた部だとすれば、第四部は、そのような感情を持つ人間が、どうすれば情念への隷属から離れ、より自由に生きられるのかを扱った部と見ることができる。そして、その回答がスピノザにとっての**「理性に従って生きる自由な人間」**なのである。
第五部――情念から自由へ
ここまでスピノザは、人間の感情について長い道筋をたどってきた。
第三部では、まずコナトゥス――各々のものが自己の存在に固執しようとする努力を人間理解の基礎に置いた。そこから欲望・喜び・悲しみという基本感情を導き、愛、憎しみ、希望、恐怖、嫉妬、怒り、復讐心など、多数の感情を少数の原理から説明しようとした。第四部では視点が変わる。人間は自己保存を目指して生きているにもかかわらず、現実には外部原因によって容易に感情へ動かされ、自分自身を十分に統御することができない。スピノザはこの状態を**「人間の隷属」**として論じた。
そこで登場したのが理性である。
自分にとって本当に有益なものを認識し、理性に従って生きるなら、人間は他者との一致を求め、社会の中でより大きな活動能力を獲得することができる。そして第四部の終盤には、情念に振り回される人間とは対照的な**「自由な人間」**の姿が現れた。
ここまでを一本の流れとして示せば、
コナトゥス(自己の存在に固執する努力)
↓
欲望・喜び・悲しみ
↓
愛・憎しみ・希望・恐怖などの諸感情
↓
外部原因による情念への隷属
↓
理性による認識
↓
人間相互の一致と自由
となる。
しかし、ここで一つ大きな問題が残されている。理性が分かっただけで、人間は感情から自由になれるのか私たちは、怒ってはいけないと分かっていても怒る。憎しみが自分を苦しめると理解していても、相手を憎む。過去の出来事を思い出しただけで、すでに終わったはずの悲しみや怒りが再び現在の感情として立ち上がることさえある。
「理性に従うべきだ」と理解することと、実際に情念の力から自由になることは同じではない。第四部までで「自由な人間」という到達点を示したとしても、それだけでは、人間はいかにしてそこへ到達するのかという問題が残る。その問題に答えようとするのが、『エチカ』最後の第五部、
「知性の能力あるいは人間の自由について」
である。
第五部前半でスピノザが問題にするのは、精神が感情に対してどのような力をもちうるのかということである。感情そのものを消してしまうのではない。 感情をその原因から切り離すこと。
感情について明晰な認識を形成すること。
個々の出来事をより大きな必然的因果関係の中で理解すること。こうした認識の働きによって、人間が受動的な情念からどこまで自由になれるのかが検討されていく。そして第五部後半になると、議論はさらに大きく展開する。
精神の永遠性、第三種の認識、神への知的愛、そして至福。
第三部で一つ一つの感情を幾何学的に組み立て始めたスピノザは、最後には「人間にとって自由とは何か」「幸福とは何か」という問題へ到達するのである。
因果的理解は、情念から人間を解放するのか
これまでスピノザが展開してきた、自然と人間をともに必然的な因果関係のもとで理解しようとする思考は、科学的認識を重視する現代のわれわれにも重大な示唆を与えるものと思われる。人間の感情さえ自然の一部として捉え、その原因を理性的に理解することによって情念への隷属から自由になろうとする。その論証はきわめて徹底している。しかし、このような生き方を現実の人間関係のすべてに適用できるかどうかについては、なお考えてみる余地がある。
『ドラえもん』で知られる藤子・F・不二雄には、『ボノム=底ぬけさん=』という作品がある。主人公ボノム氏は、他者から受ける要求や非難に対してほとんど怒ることがない。人間の行動を遺伝や環境などの原因によって科学的に説明し、相手を個人的な憎悪や非難の対象としないという、特異な生き方を実践しているからである。
この点だけを見るなら、ボノム氏の生き方には、それまで『エチカ』が示してきた、人間を自然の因果関係の中で理解するという姿勢と興味深い共通性がある。ところが藤子・F・不二雄は、この生き方を単なる理想として終わらせない。物語の最後で、ボノム氏自身がその信念を根底から試される事態に直面する。そこで読者には、一つの問いが残される。
原因を理解することによって、人間は本当に情念から自由になれるのだろうか。
一方、『エチカ』第五部の最終局面で、スピノザは第二種の認識をさらに押し進めるだけではなく、第三種の認識――直観知――へと進む。そして精神の永遠性、神への知的愛、至福へと議論を導いていく。これは『エチカ』が到達した一つの結論である。しかし、第二種の認識から第三種の認識へのこの移行が、われわれが現実に経験する激しい情念の問題とどのようにつながるのか。その問いは、なお読者の側に残されている。