
荻間寅男の論文からヒュームへ
本稿がヒュームの情念論へ入る手掛かりとしたのは、イギリス思想史・宗教思想を研究してきた荻間寅男の論文「ヒュームにおける情念論」である。
荻間論文の特徴は、ヒュームの情念論を『人性論』第二篇「情念について」だけで完結したものとして扱わず、第一篇「知性について」から第三篇「道徳について」までを貫く一続きの人間研究として読もうとする点にある。ヒュームの「理性は情念の奴隷であり、そうあるべきである」という有名な言葉も、理性と情念との単純な対立を述べたものではない。第一篇で論じられる印象・観念・記憶・想像・連合・信念が、第二篇における情念の発生を支え、さらに第三篇の道徳判断と社会的規範へつながっていく。荻間論文は、この連続した構造の中にヒュームの情念論を位置づけている。
その一方で荻間は、ヒュームの説明が必ずしも完成された体系ではないことも指摘する。感覚の印象と快苦との境界は明確ではなく、自負がなぜ自己を対象とするのかという問いも残る。情念は印象・観念・快苦・連合・生気・共感・習慣によって説明されるが、それらの関係には、なお整理を要する部分がある。それでも、ヒュームが情念を理性の失敗や身体の単純な反応として退けず、人間の知性、自己認識、信念、道徳、行為を動かす中心的な働きとして捉えようとした点は重要である。荻間論文は、その広い構想へ入るための案内図となる。
本稿では、この荻間論文を出発点としながら、必要に応じて『人性論』第一篇と第二篇へ戻り、ヒュームが情念の説明に用いた基本概念を整理する。そのうえで、これらの説明がどの議論領域に属するのか、また情念を生じさせる観念内容を事実命題・可能命題・価値命題として区別できるかという、凪原感情論理からの問いを加える。以下の構成と解釈は、荻間論文を手掛かりとしつつ、本稿独自の整理を含むものである。
参照文献
荻間寅男「ヒュームにおける情念論」『東洋学園大学紀要』第13号、2005年、1–14頁。
https://togaku.repo.nii.ac.jp/records/338
第一篇「知性について」
ヒュームの情念論基本構造― 『人性論』を動かす七つ道具 ―
情念論の基本構造は、次の四つの観点から整理することができる。
- 根底――快・苦
- 材料――印象と観念
- 発生機構――印象と観念の連合、生気の移行
- 方向づけ――自己・他者などの対象
一番深い基礎は快苦
荻間が重視するヒュームの言葉は、快苦を除去すれば、愛情と憎悪、自負と自卑、欲望と嫌悪、その他大部分の二次的印象も除去される。というものである。 したがって、ヒュームにとって情念の根底には、
- 快へ向かう傾向
- 苦を避ける傾向
という「心の一般的傾向」がある。デカルトのように六つの基本情念から多数の特殊情念を分類的に派生させるのでもなく、スピノザのようにコナトゥスと活動能力の増減から喜び・悲しみ・欲望を導くのでもない。ヒュームはまず、経験のうちに現れる快苦を基礎に置く。
情念の材料は「印象」と「観念」
ヒュームにとって心に現れるものは、大きく次の二種類である。
- 印象――現在感じている、強く生き生きした知覚
- 観念――印象が弱められ、記憶・想像・思考の中に再現されたもの
寒さ、痛み、快さなどの感覚的印象が残り、それが観念として再現されると、さらに欲望・嫌悪・希望・恐怖などの新しい「内省の印象」が生じる。この新しく生じた印象が情念である。したがって情念は、外界を写した観念そのものではない。ヒュームは情念を、根源的存在であり、他の存在の模写ではないとしている。「私は怒っている」という情念は、外界にある怒りを写した観念ではなく、心の中に実際に発生した新しい印象である。
個別情念を作るのは「二重関係」
快苦だけでは、「これは自負なのか、愛なのか、喜びなのか」が決まらない。それを決めるのが、ヒューム独特の「観念の関係と印象の関係との二重関係」である。
自負を例にすると、次の構造になる。
flowchart TD
A →所有物・能力・容姿 自己との関係) B→ 自負の快い印象 C→ E対象=自己 D→自負 例えば、自分の家が立派だとする。
- 立派な家が快い感情を生む
- その家が「自分の所有物」として自己に結びつく
- 快い印象が自負の快い印象へ移る
- 家の観念が自己の観念へ移る
- 二つの移行が重なって「自負」が生じる
これが二重関係である。
愛の場合も基本構造は同じであるが、情念の対象が自己ではなく他者になる。
| 快苦 | 原因と結びつく対象 | 生じる情念 |
| 快 | 自己 | 自負 |
| 苦 | 自己 | 自卑 |
| 快 | 他者 | 愛 |
| 苦 | 他者 | 憎しみ |
したがって、自負と愛はどちらも快を基礎にする。違いは「快い性質を誰に帰属させるか」である。自分に帰属させれば自負、他人に帰属させれば愛になる。
直接情念と間接情念
ヒュームは情念を二種類に分ける。
直接情念:善悪・快苦、またはその見込みから比較的直接に生じる。
- 欲望・嫌悪 ・喜び・悲しみ ・希望・恐怖 ・意志
例えば将来の善が確実なら喜びや欲望、不確実なら希望と恐怖が混在する。ここでは因果的な信念や蓋然性が情念の強度を左右する。
間接情念:快苦だけでなく、自己・他者との関係を介して生じる。
- 自負・自卑 ・愛・憎しみ
したがって間接情念では、「快い・苦しい」だけでなく、「それが誰に関係するか」が不可欠である。
荻間による追加――情念は社会の中で完成する。
荻間は、ヒュームが第二篇だけでは情念を説明し切れなかったと見ている。
実際の愛憎や自負・自卑は、+
- 共感
- 習慣
- 一般規則
- 他者からの評価
- 社会的・道徳的規範
- 個人の気質や経歴
によって変化するからである。そこでヒュームの情念論は、抽象的な「心の内部の連合」から、第三篇の「社会的存在としての人間」へ進む、と荻間は解釈する。
つまり、ヒュームの最終的な情念構造は次のように整理できる。
快苦→ 印象・観念 → 連合と生気の移行 → 自己・他者への帰属 → 共感・習慣・社会規範による調整
→ 個別情念
デカルト・スピノザとの違い
| 哲学者 | 情念の基礎 | 個別情念が生じる原理 |
| デカルト | 身体運動・動物精気と精神の結合 | 身体変化が松果腺を介して精神に働く |
| スピノザ | コナトゥス | 活動能力の増減と、その原因についての観念 |
| ヒューム | 快苦を伴う印象 | 印象・観念の連合、生気の移行、自己・他者との二重関係 |
スピノザには、情念全体を一つに統一するコナトゥスがある。ヒュームには、それに相当する形而上学的な単一原理はない。もっと経験心理学的に、快苦を基礎として、心の中で印象と観念がどのように結びつき、どこへ向けられるかによって情念を説明する。
凪原理論との比較
ヒュームの「快苦」は、一見すると凪原理論の (V_S) に近く見える。しかし、同じではない。
凪原では、事実・可能・価値の命題認識 → V_Sの変動 → 情念 となる。
これに対しヒュームでは、快苦の印象 → 観念・印象の連合 → 生気の移行 → 情念 である。
ヒュームは「何をよい・悪いと判断したのか」という価値命題を明示せず、快苦と連合で説明しようとする。ここが凪原から見た最大の問題点である。
しかも荻間自身、ヒュームが感覚印象と快苦を明瞭に区別できていないこと、自負などが自己を対象とする根拠を最後には「自然的特性」「本源的衝撃」に求めていることを指摘している。つまり、情念発生の説明を突き詰めると、ヒュームにも「もともと心に備わっている傾向」という未説明部分が残る。
暫時一言でまとめれば、ヒュームは、各種情念の共通基礎を快苦に置き、その快苦を伴う印象と観念が、連合と生気の移行によって自己または他者へ方向づけられることで、自負・自卑・愛・憎しみなどが生じると考えた。
スピノザのコナトゥスに相当するものを探すなら、ヒュームでは単一概念ではなく、「快苦+連合原理+自然的傾向」の組合せになる。
ヒューム『人性論』第一篇第一部――精神を分析するための基本概念
何を分析しようとしているのか
『人性論』第一篇第一部には、「観念の起源」「記憶と想像」「観念の連合」「関係」「様態と実体」「抽象観念」といった区分が次々に現れる。一読すると、ヒュームが人間の知的能力に独自の名称を与え、複雑な分類を試みているだけのようにも見える。
しかし、この第一部の目的は知性の種類を分類することではない。ヒュームがここで準備しているのは、知識・信念・因果関係・自己・情念を分析するための共通の道具である。ヒュームにとって、私たちが直接捉えられるのは、外界の物それ自体ではなく、精神に現れる「知覚」である。木を見るとき、精神に直接現れるのは木そのものではなく、色や形などの知覚である。過去を思い出すときにも、過去の出来事そのものが精神に戻るのではなく、その出来事についての観念が現れる。したがって、物理世界について考える場合も、精神世界や情念を考える場合も、ヒュームの分析はまず「精神に何が、どのように現れるか」から始まる。
1 知覚――精神に現れるものの総称
ヒュームは、精神に現れるものをすべて「知覚」と呼び、それを「印象」と「観念」に分ける。印象とは、感覚や感情として強く生き生きと現れる知覚である。目の前の炎を見ること、熱さを感じること、痛み、喜び、悲しみ、欲望などがこれに当たる。これに対して観念とは、印象を思い出したり、想像したり、考えたりするときに現れる、比較的弱い知覚である。過去に見た炎を思い出すことや、痛みを想像することは観念に属する。両者の基本的な違いは、内容の種類というより、精神に現れる力と生気の程度にある。
印象――強く、生き生きと感じられる知覚
観念――印象を思考・記憶・想像のうちに再現した、比較的弱い知覚
この「生気」の違いは、のちに単なる想像と信念との違いを説明する際にも重要になる。
2 単純なものと複合したもの
印象と観念は、さらに単純なものと複合したものに分けられる。単純な知覚は、それ以上分けることのできない色、音、味、痛みなどである。これに対して複合した知覚は、多数の単純な要素が組み合わされたものである。たとえば、目の前の一個のリンゴは、赤い色、丸い形、香り、味、手触りなどから構成される。私たちはそれらをまとめて「リンゴ」という一つの対象として捉えている。ヒュームは、単純な観念は、それに対応する単純な印象から生じると考える。先天的に観念が備わっているのではなく、まず経験としての印象があり、その印象が弱められて観念として残るのである。これが、いわゆる「コピー原理」である。 印象 → 観念
もっとも、精神は受け取った観念をそのまま保存するだけではない。既存の観念を分解し、並べ替え、新しく結合することができる。実際には見たことのない「黄金の山」も、黄金と山の観念を組み合わせることによって想像できる。精神は素材を無から作るのではないが、経験から得た素材を加工することはできるのである。
| 単純――分解できない | 複合――複数の要素からなる | |
| 印象 | 赤さ、甘さ、熱さ、痛み | 現在見ているリンゴ、喜びや悲しみを伴う出来事 |
| 観念 | 思い出された赤さ、甘さ、痛み | リンゴの記憶、黄金の山、過去の出来事 |
3 感覚の印象と反省の印象
ヒュームは印象を、さらに「感覚の印象」と「反省の印象」に分ける。感覚の印象とは、色・音・熱さ・快・苦など、精神に最初に生じる印象である。私たちは通常、それらが外界や身体に由来すると考えるが、ヒュームは、その究極的な原因についてはここで確定しない。
これに対して反省の印象とは、先行する印象やその観念を契機として、精神の内部に新たに生じる欲望・嫌悪・希望・恐怖などである。たとえば、ある経験が快または苦の印象を与えると、その印象は観念として精神に残る。その観念が再び精神に現れると、欲望・嫌悪・希望・恐怖などの新しい印象が生じる。ヒュームは、この新たな印象を「反省の印象」と呼ぶ。情念は、この反省の印象に属する。
4 記憶と想像
印象から生じた観念は、主として記憶と想像の中に現れる。記憶は、もとの印象に比較的近い生気を保ち、出来事の順序や配置も保存する。これに対して想像は、記憶よりも生気が弱く、観念の順序を自由に変更し、分離したり結合したりできる。ただし、想像はまったく無秩序に働くわけではない。観念から別の観念へ移る際には、ある程度規則的な傾向が認められる。そこでヒュームが提示するのが「観念の連合」である。
5 観念を結びつける三つの原理
想像の中で観念を結びつける基本原理は、次の三つである。
- 類似
- 時間的・空間的な近接
- 原因と結果
肖像画を見れば、描かれた人物が思い浮かぶ。これは類似による連合である。ある部屋を思い出すと、隣の部屋が思い浮かぶ。これは近接による連合である。傷口を見て、それを生じさせた事故を考える。これは原因と結果による連合である。
ヒュームは、この連合を観念に働く「穏やかな力」として捉える。それは論理的な必然性によって観念を結合する力ではなく、精神がある観念から別の観念へ移行しやすくなる自然な傾向である。とりわけ原因と結果の関係は、後の因果論と信念論の中心になる。ただし第一部では、まだその本格的な分析には入らず、観念を結びつける原理の一つとして提示されている。
6 関係とは何か
ヒュームは「関係」を、類似、同一性、時間と空間、数量、性質の程度、反対、原因と結果などに区分する。ここでも、世界そのものの構造を直接記述しているわけではない。精神が二つの対象を比較するとき、どのような観点によって両者を結びつけるかを整理しているのである。この点でヒュームの関心は、「物が実際にどのような本質を持つか」よりも、「人間の精神が物をどのような関係として捉えるか」に向けられている。
7 実体と抽象観念
私たちは、さまざまな性質の背後に、それらを支える「実体」が存在すると考えやすい。しかしヒュームによれば、実体そのものに対応する独立した印象は見いだされない。私たちが一つの物と呼んでいるものは、色、形、硬さ、匂いなど、共に現れる複数の単純な観念の集合である。精神は、それらが繰り返し一緒に現れるため、一つの名称によってまとめている。
抽象観念についても同様である。精神の中に、三角形一般、人間一般という、完全に無個性な像が存在するわけではない。ある特定の三角形や人間についての観念が、一般的な語と結びつき、習慣によって類似した多数の対象を代表するのである。ここにも、経験から与えられないものを独立した実体として認めず、観念の働きによって説明しようとするヒュームの基本姿勢が現れている。
8 第一部の結論――ヒュームの分析道具
第一篇第一部で用意された基本概念は、次のように整理できる。
| 精神の働きと道具 | 何が起こるか | 情念論への接続 |
| 受け取る――感覚の印象 | 色・音・熱さ・快苦などが強く現れる | 情念を生む最初の材料 |
| 反応する――反省の印象 | 観念を契機に欲望・嫌悪・希望・恐怖などが生じる | 情念そのもの |
| 再現する――観念 | 印象が比較的弱い心像として残る | 不在の対象も情念の契機となる |
| 保持する――記憶 | 元の順序と比較的強い生気を保つ | 過去の快苦が再現される |
| 加工する――想像 | 観念を分解・再配置・結合する | 将来や不在の対象を構成する |
| 結びつける――連合 | 類似・近接・因果によって観念が移る | 人物や出来事が別の情念を呼び起こす |
| 強める――生気 | 観念が強く感じられる | 観念が信念として働き、情念を強める |
以上は、一列に並ぶ同種の分類ではない。印象と観念は精神に現れる材料の区分であり、単純と複合はその構成上の区分である。記憶と想像は観念を再現・加工する機能、連合は観念を結びつける原理、生気は観念が精神に現れる強度を意味する。ヒュームの説明が複雑に見えるのは、材料・構成・機能・接続・強度という異なる次元の概念が、続けて提示されるためである。
この基礎は、第二篇の情念論にもそのまま引き継がれる。快や苦が感覚の印象として生じると、その印象は観念として精神に残る。その観念が再び精神に現れることにより、欲望・嫌悪・希望・恐怖などの新しい反省の印象が生じる。
9 ヒュームにおける情念発生の基本過程
感覚の印象〔快・苦〕
→ 快・苦の観念
→ 反省の印象〔欲望・嫌悪・希望・恐怖〕
さらに、記憶と想像、観念の連合、生気の移行が、情念の対象・方向・強度を変化させる。ある人物についての記憶が別の出来事を呼び起こしたり、想像された出来事が強い生気を帯びたりすることによって、目の前に存在しない対象についても情念が生じうる。
ヒュームの情念論を理解するには、個々の情念の名称を先に覚えるよりも、「印象と観念」「感覚の印象と反省の印象」「記憶と想像」「観念の連合」「生気」という道具を押さえることが重要である。ヒュームが描こうとしたのは、完成した命題を処理する精神だけではない。精神に生じた印象が観念として残り、その観念が記憶・想像・連合のうちに働き、やがて信念や新たな情念を形成していく、精神内部の生成過程なのである。
10.知性論から情念論への橋
第一篇第二部では、空間と時間の観念が、知覚された諸点の配置と知覚の継起から形成されることが論じられる。これは、観念の起源を印象に求める第一部の原則を、空間と時間に適用したものである。もっとも、この議論は情念論へ直接つながるものではないため、ここでは立ち入らない。
情念論との関係で重要なのは、第三部における信念の分析である。ヒュームによれば、原因と結果の必然的な結合は、対象の中に直接知覚されるものではない。同じ出来事の連続を繰り返し経験することによって習慣が形成され、現在ある出来事を知覚すると、それに続く結果の観念へ精神が自然に移行するようになる。その際、現在の印象が持つ生気が結果の観念へ伝えられ、単なる想像よりも強く感じられる観念、すなわち信念が成立する。信念は意志と情念に作用する。想像しただけの危険よりも、現実に起こると信じた危険の方が、強い恐怖を生じさせるのである。このように、第一篇の知性論は、観念がどの程度の生気を持ち、信念として情念を動かすかを説明する基礎となっている。
第一篇第四部について
第一篇第四部では、外界・魂・自己といった、確実に存在すると思われてきたものが検討される。しかし、ヒュームの認識論によっても、それらを理性だけで完全に基礎づけることはできない。ヒュームは、徹底した懐疑に陥りながらも、最後には自然と日常生活によって哲学的懐疑から引き戻される。ただし、この問題は十分に解決されたわけではない。とくに、第一篇で固定した自己を否定しながら、第二篇では誇りと卑下の対象として自己を用いるという問題が残される。第一篇第四部については、ヒュームの認識論が残した未解決問題として、ここでいったん区切ることにする。
そのうえで情念論へ進む前に、ヒュームが「理性」という言葉によって、どのような働きを意味していたのかを整理しておきたい。理性についての説明は、『人性論』の各所に分散しているが、第二篇の情念論から第三篇の道徳論へ進むためには、欠かすことのできない概念だからである。
ヒュームの理性とは
ヒュームは「理性」について、一か所でまとまった定義を示しているわけではない。その働きは、第一篇の知識論、第二篇の意志と情念の議論、第三篇の道徳論に分散して説明されている。これらをまとめると、ヒュームの理性とは、観念相互の関係を比較し、事実および原因と結果の関係を認識する働きである。
理性の二つの働き
第一篇第三部「知識と蓋然性について」で、ヒュームは人間の推論を大きく二つに分けている。
第一は、観念相互の関係を比較する論証的推論である。数学や論理のように、経験上の事実を調べなくても、観念を比較することによって真偽を判定できる。
第二は、経験によって事実や原因と結果の関係を認識する蓋然的推論である。ある出来事から別の出来事が生じることは、観念だけを調べても分からない。同じ出来事の連続を繰り返し経験することによって習慣が形成され、一方から他方を予測するようになる。
したがって、ヒュームの理性は、次の二つの領域で働く。
① 観念相互の関係を調べる
② 事実・原因・結果の関係を調べる
ヒュームはさらに、以上の推論によって得られる確実性の程度を、知識・証拠・蓋然性の三つに区分している。
| 区分 | 内容 |
| 知識 | 観念の比較から得られる確実な認識 |
| 証拠 | 因果関係に基づき、疑いをほとんど伴わない認識 |
| 蓋然性 | なお不確実性を伴う認識 |
ここで注意すべきなのは、経験的な推論が、純粋な理性だけで成立するのではないことである。原因と結果についての信念は、経験の反復、習慣、想像力、生気の移行によって形成される。理性がこれらを上から統制しているのではなく、経験的な理性判断そのものが、人間本性に備わるこれらの働きによって支えられている。
理性は目的を作らない
第二篇第三部「意志と直接的情念について」で、ヒュームは理性と行為との関係を検討する。人間が何かを求めるのは、対象から快を予想し、何かを避けようとするのは、そこから苦を予想するからである。目的を生み出して人間を行為へ向かわせるのは、理性ではなく、快・苦に基づく欲望や嫌悪などの情念である。これに対して理性は、対象が実際に存在するかを確認し、原因と結果を調べ、目的を実現するための手段を示す。
情念→目的の設定情念
目的の設定 理性→事実の確認・因果関係の認識・手段の選択理性
たとえば、ある果物を食べたいという欲求を、理性が生み出すわけではない。理性は、その果物が存在するか、どこで手に入るか、どのような行為によって入手できるかを判断する。果物が存在しないことが分かれば欲求は消え、選んだ方法では入手できないことが分かれば手段が変更される。
したがって、理性は情念から独立して行為を生み出すことはできない。理性は目的を命令する主人ではなく、情念によって与えられた目的へ至る道を調べる案内役である。これが、ヒュームの有名な「理性は情念の奴隷である」という言葉の意味である。

。第二篇 情念について
情念そのものは非理性的ではない
ヒュームによれば、怒り、恐怖、喜び、悲しみなどの情念そのものには、真偽はない。情念は現実に生じている内的な印象であり、事実を写した命題ではないからである。
情念が「非理性的」と呼ばれる場合があるとすれば、誤っているのは情念ではなく、それに伴う判断である。
第一は、実際には存在しない対象を存在すると誤認している場合である。第二は、望む目的を実現するために役立たない手段を選んでいる場合である。
誤った事実認識→情念の対象が失われる
誤った因果認識→行為の手段が変更される
理性は情念と戦って情念を抑圧するのではない。理性が訂正するのは、情念に伴う事実認識と手段の判断なのである。
第一篇でヒュームは、印象・観念・記憶・想像・連合・生気・信念という、人間の認識を説明する道具を準備した。第二篇では、これらの道具を使って、誇り・卑下・愛・憎しみ・欲望・希望・恐れなどの情念が、どのように発生し、意志と行為を動かすのかを明らかにする。
第二篇の情念論は、大きく三つの方向に分かれる。
誇り・卑下→自己へ向かう情念愛・憎しみ→他者へ向かう情念欲望・嫌悪・希望・恐れ→意志と行為へ向かう情念
ヒュームは情念を、理性と対立する不可解な力としてではなく、印象と観念の結合によって生じる一定の心理機構として解明しようとする。
第一部 誇りと卑下について
第一節 情念の位置づけ
ヒュームは、心に現れるすべての知覚を「印象」と「観念」に分け、さらに印象を「感覚の印象」と「反省の印象」に区分する。
感覚の印象とは、外界からの刺激や身体の状態によって直接生じる感覚である。これに対して反省の印象とは、先行する感覚や観念をもとに、心の内側で二次的に生じる印象である。情念は、この反省の印象に属する。
感覚の印象→その観念→反省の印象としての情念
反省の印象には、静かなものと激しいものがある。美や醜さについての感受は比較的静かな印象であり、愛・憎しみ・悲しみ・喜び・誇り・卑下などは激しい印象である。
さらにヒュームは、情念を「直接的情念」と「間接的情念」に分ける。
- 直接的情念:快・苦、善・悪から比較的直接に生じる情念
- 間接的情念:快・苦に加えて、自己や他者との関係を介して生じる情念
欲望・嫌悪・喜び・悲しみ・希望・恐れは直接的情念に、誇り・卑下・愛・憎しみなどは間接的情念に分類される。
第二節 誇りと卑下の対象
誇りと卑下は、快と苦という点では正反対の情念である。しかし、両者が向かう対象は共通している。その対象とは「自己」である。
誇り→自己を快く感じる卑下→自己を苦しく感じる
ここでいう自己は、固定した精神的実体ではない。第一篇で説明された、記憶や因果関係によって結びつけられた「知覚の継起」である。それにもかかわらず、誇りと卑下が生じるとき、心の視線は常に自己へ向かう。
ただし、自己は情念の「対象」であって、それだけで情念を生じさせる「原因」ではない。自己だけが原因なら、同じ自己から誇りと卑下が同時に生じなければならないからである。したがってヒュームは、情念の「対象」と「原因」を区別する。
- 対象:情念が最終的に向かうもの
- 原因:情念を実際に呼び起こすもの
誇りと卑下の対象は自己であるが、その原因は、能力・人格・身体・所有物・家族・国家など、自己と関係するさまざまなものに求められる。
第三節 情念の原因――性質と主体
情念の原因は、さらに「性質」と、その性質が属する「主体」に分けられる。たとえば、自分の所有する美しい家を誇りに思う場合、
- 性質:家の美しさ
- 主体:自分の所有する家
- 情念の対象:自己
- 生じる情念:誇り
となる。美しさだけでは、それが自分と無関係なら誇りは生じない。一方、自分の所有物であっても、そこに快を与える性質がなければ、やはり誇りは生じない。
快を与える性質∧自己と関係する主体⇒誇り
反対に、
苦を与える性質∧自己と関係する主体⇒卑下 となる。
誇りや卑下を生じさせるものは、時代や社会によって増減する。家・衣服・財産・地位などは人工的に作られたものであり、自然が一つずつ情念の原因として人間に植えつけたとは考えられない。そこでヒュームは、多様な原因の背後に、共通して働く一般原理があると考える。
第四節 観念と印象の二重関係
ヒュームの説明の核心が、「観念の関係」と「印象の関係」の二重作用である。
観念は、類似・近接・因果性によって別の観念へ移行する。これに対して印象は、感情的な類似によって別の印象へ移行する。悲しみから怒りへ、怒りから憎しみへ移ることがある一方、喜びから愛・寛大・勇気・誇りへ移ることもある。
誇りが成立する場合には、次の二つの移行が同時に起こる。
自分の家→自己観念の関係
家の美しさによる快→誇りの快 印象の関係
家は所有関係によって自己と結びつき、美しさによる快は誇りの快と類似している。この二つの関係が重なったとき、心は自己へ移行し、誇りが生じる。
これがヒュームの「観念と印象の二重関係」である。
| 原因の側 | 情念の側 | 移行 |
| 美しい家 | 自己 | 主体から対象への観念の移行 |
| 美しさによる快 | 誇りの快 | 印象から印象への感情的移行 |
卑下の場合も同じ構造を持つ。違うのは、快ではなく苦が移行することである。
自己との関係∧快の類似⇒誇り
自己との関係∧苦の類似⇒卑下
ここに、「化学と幾何学が一緒になったような構造」が最も明瞭に現れている。快・苦という情念の材料が化学的に結合し、原因・主体・自己の位置関係が幾何学的に方向を定めるのである。
第一部の結論
ヒュームにとって、誇りと卑下は、単純な自己評価ではない。それは、自己と関係する対象が快または苦を生み、その感情が観念の連合と印象の連合によって自己へ移行したときに成立する、間接的情念である。
快・苦を生む性質∧自己と関係する主体⇒誇り・卑下
ただし、その成立には、自己との密接な関係、特有性、他者からの可視性、持続性、社会的評価などの条件が加わる。
この意味で、誇りと卑下は心の内部だけで完結する感情ではない。自己・所有物・他者・社会的評価が交差する場所に生じる情念である。
また、誇りの強い人が必ずしも幸福であり、卑下する人が必ずしも不幸であるとは限らない。現実の快・苦と、自己へ向かう誇り・卑下とは、同じものではないからである。
第二部 愛と憎しみについて
第一部で扱われた誇りと卑下は、いずれも自己を対象とする情念だった。第二部では、同じ生成機構が他者へ向けられたとき、愛と憎しみがどのように生じるかが論じられる。
誇り・卑下→自己を対象とする愛・憎しみ→他者を対象とする
ヒュームの説明では、誇り・卑下と愛・憎しみは別々の仕組みから生じるのではない。情念を生じさせる性質が自己に属するか、他者に属するかによって、心が向かう方向が変わるのである。
第一節 愛と憎しみの対象と原因
誇りと卑下の対象が自己であるのに対して、愛と憎しみの対象は他者である。
誇り・卑下の対象=自己愛・憎しみの対象=他者
ヒュームは、愛と憎しみが常に、自分の外部にいる感受能力を持った存在へ向けられると考える。そのため、一般に用いられる「自己愛」は、他者に対する愛と厳密には同じ情念ではないとされる。しかし、他者が存在するだけで愛や憎しみが生じるわけではない。ここでも、情念の「対象」と「原因」を区別しなければならない。
- 対象:愛または憎しみが向けられる人物
- 原因:その人物に属する性質や、その人物と関係する事物
たとえば、ある人物の徳・知識・機知・分別・気立てのよさは、愛や尊敬の原因となる。その反対の性質は、憎しみや軽蔑の原因となる。また、身体的な美しさ・力・器用さ、さらには家族・所有物・衣服・国家なども、その人物との関係によって愛や憎しみの原因となりうる。ここでも原因は、「性質」と「主体」に分けられる。ある統治者が所有する壮麗な宮殿によって、人々がその統治者を尊敬する場合、
- 性質:宮殿の美しさ
- 主体:統治者が所有する宮殿
- 情念の対象:統治者
- 生じる情念:愛または尊敬
となる。
宮殿が美しくても、それが統治者と無関係なら、統治者への尊敬にはならない。一方、宮殿が統治者の所有物であっても、そこに快を与える性質がなければ、やはり尊敬の原因にはなりにくい。したがって、愛と憎しみにも、第一部と同じ「観念と印象の二重関係」が働く。快を与える性質∧他者と関係する主体⇒愛
誇り・卑下との対応
人は、自分の性格・才能・財産などに満足すると、それを他人にも示し、愛や承認を得ようとする。これは、本人に誇りを生じさせるものが、他人から見れば愛や尊敬を生じさせると期待しているからである。
自分の徳を自分が見る⇒誇りその徳を他人が見る⇒愛・尊敬
同じ快い性質でも、それが誰に属するかによって、誇りになるか愛になるかが変わる。
第二節 四つの情念による実験
ヒュームは、自分と、これまで特別な好意も敵意も抱いていなかった他者が向かい合っている場面を想定する。ここには、四つの情念が成立する可能性がある。
| 情念 | 対象 | 感情的性質 |
| 誇り | 自己 | 快 |
| 卑下 | 自己 | 苦 |
| 愛 | 他者 | 快 |
| 憎しみ | 他者 | 苦 |
ヒュームが正方形と呼んでいるものは、この表を図形に置き換えたものである。四つの情念の間には、二種類の結びつきがある。
対象による結びつき
誇り⟷卑下 両方とも自己を対象とする。
愛⟷憎しみ 両方とも他者を対象とする。
感情的性質による結びつき
誇り⟷愛 両方とも快い情念である。
卑下⟷憎しみ 両方とも不快な情念である。
したがって、四つの情念が四方から複雑に引き合っているというよりも、二つの基準によって配置されていると考えればよい。
誰に属するか:自己/他者
どんな性質か:快/苦 この二つの条件によって、発生する情念が決まる。
四方向の切り替え
ヒュームは「徳」と「悪徳」を使って、二つの条件を順番に切り替える。
| 性質 | 所属先 | 生じる情念 |
| 徳 | 自己 | 誇り |
| 徳 | 他者 | 愛 |
| 悪徳 | 他者 | 憎しみ |
| 悪徳 | 自己 | 卑下 |
これを順にたどると、誇り→愛→憎しみ→卑下→誇り と一巡する。
しかし、情念そのものが勝手に別の情念へ変化するわけではない。
- 自己を他者へ変えると、誇りから愛へ移る
- 徳を悪徳へ変えると、愛から憎しみへ移る
- 他者を自己へ変えると、憎しみから卑下へ移る
- 悪徳を徳へ変えると、卑下から誇りへ戻る
つまりヒュームは、対象と感情的性質という二つの変数を操作し、その組合せによって情念が変わると説明している。
二重関係が成立しない場合
ヒュームは、この仮説を確かめるために、いくつかの思考実験を行う。
どちらの関係もない場合
自分にも他者にも属さず、それ自体で快も苦も与えない普通の石を見ても、誇り・卑下・愛・憎しみのいずれも生じない。
自己・他者との関係だけがある場合
自分の所有物であっても、何の快も苦も与えないありふれた石なら、通常は誇りや卑下の原因にはならない。
他者が所有する石についても、それだけで愛や憎しみは生じない。
快・苦だけがある場合
美しい景色や快適な宿は、旅人に喜びを与える。しかし、その土地や宿が自分にも同行者にも関係しないなら、自分への誇りや同行者への愛にはならない。
したがって、快・苦だけ または、自己・他者 との関係だけでは不十分であり、二つの関係が重なる必要があるとヒュームは考える。
親しい他者から自己への移行
ヒュームはさらに、情念の対象となる人物が、自分の息子や兄弟など、自己と密接な関係を持っている場合を取り上げる。兄弟に徳があれば、まず兄弟への愛が生じる。しかし兄弟は自己とも密接に関係しているため、その愛の快が自己へ移り、自分の誇りにもなる。
兄弟の徳→兄弟への愛→自分の誇り
反対に、兄弟の悪徳は、兄弟の悪徳→兄弟への憎しみ・不快→自分の卑下を生じさせることがある。
現在の言葉なら、「息子の成功を自分のことのように誇る」「家族の不祥事を自分の恥と感じる」という現象である。
情念の移行は対称ではない
ところが、自分の徳による誇りから、兄弟への愛が生じるとは限らない。兄弟の 徳→愛→自己の誇り という移行は起こりやすいが、自己の 徳→誇り→兄弟への愛 という逆方向の移行は起こりにくい。
ヒュームは、その理由を自己の観念の強さに求める。私たちは常に自分自身を意識しているため、自己の観念は他者の観念よりも生き生きとしている。想像力は、弱い他者の観念から強い自己の観念へは移りやすい。しかし、強い自己の観念から弱い他者の観念へは移りにくい。したがって、他者から自己への情念の移行と、自己から他者への移行は対称ではないとされる。
第二部の結論
ヒュームの正方形は、四つの情念が不可思議な力で引き合う模型ではない。「誰に関係するのか」と「快か苦か」という二つの条件を組み合わせた分類表である。このように整理すれば、第二部で行われた多数の「実験」は、対象と快・苦を入れ替えながら、どの情念が生じるかを確かめる思考実験だったことが分かる。
ただし、ヒュームがいう「実験」は、現代的な意味での心理実験ではない。日常経験を材料にした思考実験であり、四つの情念が常にこの表どおりに生じることを実証したわけではない。また、反例が現れると「自己の観念は他者より生き生きしている」という補助説明が加えられる。したがって、ヒュームが「これで読者も納得しただろう」と満足しているほど、完全に証明されたわけではない。それでも、誇り・卑下・愛・憎しみをばらばらに扱わず、快・苦×自己・他者 という共通構造によって説明しようとした点に、この理論の独創性がある。
| 方向 | 快 | 苦 |
| 自己へ向かう | 誇り | 卑下 |
| 他者へ向かう | 愛 | 憎しみ |
要するにヒュームは、壮大な「四方向の引力」を発見したというより、二軸四区画のマトリクスを、正方形と多数の実験で懸命に説明していた。そう分かってから原文を見ると、「読者はこれで納得できただろう」という本人の得意顔まで少し見えてくる(~~)。
第三部 意志と直接的情念について
第一部では、自己へ向かう誇りと卑下が、第二部では、他者へ向かう愛と憎しみが扱われた。第三部では、快・苦から生じた情念が、どのように意志と行為へ結びつくのかが問題となる。
第三部の中心には、次の四つの主張がある。
- 人間の行為にも、動機・性格・環境との必然的な結びつきがある
- 理性だけでは、意志や行為を生み出せない
- 理性と情念が直接対立することはない
- 意志をめぐって実際に争うのは、穏やかな情念と激しい情念である
意志とは何か
ヒュームは意志を、独立した精神能力や自由な原因とは考えない。意志とは、意識的に身体運動または心の知覚を生じさせるときに、私たちが感じる内的印象である。たとえば、手を上げる、歩き始める、あることを思い出そうとする。そのときに感じる「自分がこれを起こしている」という内的印象が、ヒュームのいう意志である。
意志 = 意識的な身体運動・知覚に伴う内的印象
したがってヒュームは、意志を情念の一種とはしていない。しかし、情念が意志と行為をどのように生じさせるかを説明するため、ここで意志を扱う。
自由と必然 自然界の必然性とは何か
一般には、物体の運動には必然性があり、人間の意志には自由があると考えられている。しかしヒュームは、自然界においても、物体を結びつける必然的な力そのものが観察されているわけではないとする。私たちが観察できるのは、
- 同じ原因と結果が繰り返し現れること
- 原因を見たとき、結果を予想する心の働き
だけである。したがって必然性は、
恒常的な連結 + 一方から他方を予測する心の推理
によって成立する。これは第一篇で説明された因果関係と同じである。火のあとに熱が繰り返し生じるのを見て、火から熱を予測する。この規則的連結と心の習慣が、必然性と呼ばれている。
人間の行為にも必然性がある
人間の行為にも、動機・性格・環境との規則的な結びつきがある。人は、年齢、性格、教育、身分、社会制度などによって、ある程度一貫した行動をとる。私たちも、他人の性格や動機を知れば、その人がどのように行動するかを予測して生活している。
- 統治者は、課税すれば人民が支払うと予測する
- 将軍は、兵士が一定の勇気を示すと予測する
- 商人は、代理人が商品を管理すると予測する
- 家の主人は、召使いが夕食を用意すると予測する
私たちは日常生活のほとんどを、このような人間行動の予測に頼っている。
動機・性格・環境 → 意志 → 行為 この結びつきが規則的であり、そこから行為を予測できる以上、人間の行為にも自然界と同じ意味での必然性があるとヒュームは考える。
二つの自由
ヒュームは、自由という言葉に二つの意味が混同されていると指摘する。
| 自由 | 意味 |
| 自発性の自由 | 外部から強制されず、自分の意志に従って行為できる |
| 無差別の自由 | 動機や原因に規定されず、どちらでも選べる |
ヒュームが認めるのは、自発性の自由である。人は拘束されていなければ、自分の欲求や意志に従って行為できる。しかし、その意志自体は、性格・動機・情念から何の原因もなく生じるわけではない。「自分には別の行為もできた」と証明するため、わざと気まぐれな行為をしても、その行為には「自分が自由であることを示したい」という動機がある。したがって、気まぐれな行為も必然性から逃れてはいない。
必然性と道徳的責任
一見すると、行為が動機や性格によって必然的に生じるなら、本人に責任を問えないように思われる。しかしヒュームは、逆に必然性がなければ責任を問えないと考える。行為が本人の性格や動機と無関係に、偶然に発生したなら、その行為を本人の善悪として評価できない。行為がその人の持続的な性格から生じたからこそ、賞罰の対象にできる。
性格・動機 → 行為 ⇒ 本人への帰属と責任
必然性は道徳的責任を破壊するものではなく、むしろ責任を成立させる条件だというのがヒュームの結論である。
理性は意志を動かすか
ヒュームは、従来の道徳哲学が「理性と情念の戦い」を想定し、理性を上位に置いてきたことを批判する。そのために、次の二点を証明しようとする。
- 理性だけでは意志の動機にならない
- 理性が情念と対立することもない
理性の二つの働き
理性には二つの働きがある。
- 観念の抽象的関係を論証する
- 経験から原因と結果を判断する
数学や論理は、観念間の関係を明らかにする。しかし、計算結果そのものが人間を行為へ駆り立てるわけではない。また理性は、原因と結果を調べ、ある目的を実現する手段を示す。しかし、その目的を望む気持ちまでは作らない。たとえば、ある場所へ行きたいと思っていなければ、最短経路を知っても出発しない。理性が経路を示しても、目的への欲求がなければ行為は生じない。
情念 = 目的と駆動力 理性 = 原因・結果と手段の案内
ヒュームの言葉では、衝動は理性から起こるのではなく、理性によって導かれるだけである、となる。
「理性は情念の奴隷である」
快を予期すれば、人はその対象に愛着を感じ、それを獲得しようとする。苦を予期すれば、嫌悪を感じ、それを回避しようとする。理性は、その対象を獲得または回避するために、どの原因・手段が必要かを知らせる。
快・苦の予期 → 欲望・嫌悪 → 理性による手段の発見 → 行為
理性は方向を示せるが、出発させる力を持たない。したがってヒュームは、理性は情念の奴隷であり、それ以外の役目を望むことはできない、と結論する。
これは、理性が無価値だという意味ではない。理性は、情念が求める目的を実現するために必要である。ただし、目的や価値そのものを作る主人ではなく、情念に仕えて手段を探す役割だという意味である。
情念は非理性的なのか
ヒュームによれば、情念そのものには真偽がない。怒っているという情念は、事実として生じている内的印象である。観念のように外部の対象を写すものではないため、対象との一致・不一致を問題にできない。したがって、情念そのものが理性に反するとか、偽であるとはいえない。情念が「非理性的」と呼ばれる場合は、次の二つに限られる。
- 存在しない対象を存在すると誤認した場合
- 目的の実現に適さない手段を選んだ場合
たとえば、おいしくない果物をおいしいと思って欲しがった場合、誤っているのは欲望ではなく、果物についての事実判断である。また、ある目的を実現できない手段を選んだ場合、誤っているのは目的への欲望ではなく、原因と結果についての判断である。
誤り = 事実認識の誤りまたは手段判断の誤り
情念と理性が争っているように見える場面でも、実際に理性が訂正しているのは、情念に伴う事実認識または手段の判断である。
穏やかな情念と激しい情念
それでは、私たちが日常的に感じる「理性と情念の戦い」とは何なのか。ヒュームは、それを二種類の情念の対立だと説明する。
- 穏やかな情念
- 激しい情念
穏やかな情念には、生命への愛着、子供への配慮、善への一般的欲望、悪への一般的嫌悪などがある。これらは感情的な動揺が小さいため、理性の働きと取り違えられやすい。激しい情念には、怒り、恐怖、復讐心などがある。これらは強い感覚を伴い、目の前の行為を直接動かしやすい。たとえば、危害を加えた相手へ復讐したいという激しい情念と、自分の長期的利益や平穏を守りたいという穏やかな情念が争うことがある。
穏やかな情念⟷激しい情念
一般に「理性が怒りを抑えた」と呼ばれる場合も、ヒュームにとっては、長期的利益を求める穏やかな情念が、目の前の復讐心という激しい情念に勝ったのである。ヒュームがいう「心の強さ」とは、穏やかな情念が激しい情念より優勢になる傾向を意味する。ただし、どちらが勝つかは、その人の性格と現在の心理状態によって変わる。そのため、人間の行為を完全に予測することは難しい。
直接的情念
直接的情念とは、善・悪、すなわち快・苦から比較的直接に生じる情念である。
| 対象の状態 | 生じる情念 |
| 善が確実または確からしい | 喜び |
| 悪が確実または確からしい | 悲しみ・嘆き |
| 善が不確実 | 希望 |
| 悪が不確実 | 恐れ |
| 善をそれ自体として考える | 欲望 |
| 悪をそれ自体として考える | 嫌悪 |
| 行為によって善を得られる、または悪を避けられる | 意志 |
ここで、第二篇第三部の中心がようやく明確になる。善を得る、または悪を避けることが可能⇒意志が現れる。善や悪をただ考えるだけなら、欲望や嫌悪にとどまる。しかし、身体または心の働きによってそれを実現・回避できると認識したとき、意志が作動する。
本能から生じる情念
すべての直接的情念が、快・苦の予期から生じるわけではない。
- 敵を懲らしめたい欲望
- 友人の幸福を願う欲望
- 飢え
- 性欲
- 身体的欲求
などは、本能的な衝動から直接生じる。ヒュームは、これらを説明しがたい原初的な衝動として残している。これらの場合には、快・苦が先に情念を生むというより、本能的情念が満足または苦痛を生み出す。
第三部の全体構造
第三部全体を一本につなげると、次のようになる。
快・苦、善・悪→欲望・嫌悪などの情念
理性が原因・結果と手段を認識 → 実現・回避の可能性を示す
欲望・嫌悪+実現・回避可能性→意志→行為
さらに、その行為は偶然に生じるのではなく、性格+動機+環境→意志と行為
という必然的な連結の中で生じる。したがって、ヒュームにとって意志は、理性から独立して世界を動かす自由な司令官ではない。快・苦と情念から生じ、理性によって手段を案内され、性格・動機・環境の連結の中で行為へ移る際に意識される内的印象である。

凪原感情論理との比較
凪原感情論理では、意志 = 価値 ∧ 可能 と定義される。
ヒュームの第三部にも、これに近い二つの構成要素が現れている。
| 凪原 | ヒューム |
| 価値 | 善・悪、快・苦 |
| 可能 | 原因・結果と実現手段についての判断 |
| 意志 | 実現または回避が可能なときに現れる内的印象 |
ヒューム自身も、善または悪の不在が、心または身体の活動によって達成できると思われるとき、意志の作用が現れる、と説明している。
この部分だけを取り出せば、
(善への欲望 ∨ 悪への嫌悪)∧ 実現・回避可能性 ⇒ 意志
となり、凪原の「価値∧可能」にかなり接近している。しかしヒュームは、これを意志の構造として定式化せず、意志を「身体運動または心の知覚を意識的に生じさせる際の内的印象」と定義する。ここに両者の違いがある。
- ヒュームは、意志が現れる心理過程とその感覚を記述する
- 凪原は、意志が成立する論理条件を示す
ヒュームの内部には「価値」と「可能」に相当する材料がそろっている。しかし、それらを一つの意志関数として組み立てていない。そのため、説明を読み進めても、意志の中心がどこにあるのか見えにくいのである。
人間を行為へ動かすのは理性ではなく、快・苦から生じる情念である。理性は目的に至る手段を示し、実現または回避が可能になったとき意志が現れる。そして、その意志と行為も、性格・動機・環境から切り離された無原因の自由ではない。ヒュームは「意志と情念」を説明する途中で、因果論を人間行動へ適用し、自由意志を再定義し、道徳的責任を救い、理性を情念の従者へ降格させ、最後に直接的情念の分類へ戻っている。中心装置だけを取り出せば、情念が動かし、理性が案内し、可能性が意志を作動させる。ヒュームは、この比較的短い機構を説明するために、自由意志論と道徳責任論まで工房へ運び込んでいる。つまり、共感によって他者の快・苦が伝わり、共通の観点から行為や性格が是認・非難されることで道徳が成立する。絡繰りがすさまじく見えるのも無理はない(~~)。
第三篇 道徳について
道徳的区別は理性だけから生じない
第二篇で確認したように、理性は、観念の関係と事実・因果関係を調べ、情念が求める目的へ至る手段を案内する。しかし、理性だけでは、人間を行為へ動かすことはできない。一方、道徳は、ある行為を思いとどまらせ、別の行為を促す。道徳が人間を動かす以上、その源泉を理性だけに求めることはできない。
理性だけでは行為を動かせない理性だけでは行為を動かせない 道徳は行為を促進・抑制する道徳は行為を促進・抑制する ∴ 道徳的区別は理性だけから生じない
道徳は判断されるというより感じられる
理性は、何が起こったか、その行為がどのような結果を生むかを知らせる。しかし、「その行為は善い」「その性格は悪い」という最終的な是認・非難は、事実認識そのものではない。ヒュームによれば、ある行為や性格を見たときに生じる、特殊な快・不快の感情が、徳と悪徳の区別を構成する。
行為・性格の認識→快・不快→是認・非難
この意味で、道徳は理性によって判断されるというよりも、感情として感じられる。
共感と共通の観点
他者の利益や苦痛は、そのままでは自分自身の快・苦ではない。ヒュームは、他者の感情が自己へ伝わる働きを「共感」と呼び、これを道徳的是認・非難が生じる重要な仕組みとした。しかし、共感は、距離、親しさ、利害関係によって強さが変わる。そこで人間は、個人的な立場を離れ、社会にとってどのような性質であるかという「共通の観点」から判断を補正する。
他者の利益・苦痛→共感自己の快・不快→共通の観点道徳的是認・非難
徳を生み出す四つの源泉
ヒュームは、人間の性格が徳として評価される源泉を、次の四つに整理する。
| 価値の帰属先 | 有用性 | 直接的な快 |
| 本人 | 本人に有用である | 本人に快い |
| 他者 | 他者に有用である | 他者に快い |
本人または他者にとって有用である性質、あるいは本人または他者に直接的な快を与える性質が、共感と共通の観点を通して是認される。
正義は人為的な徳である
善意や慈愛が自然な感情から生じるのに対して、正義は、人間が置かれた社会的状況から形成される。財財物が十分に豊富であり、すべての人が完全に他者を思いやるなら、所有や約束を定める正義の規則は必要ない。しかし、現実には財産が限られ、人間の善意にも限界がある。そのため、共同生活を維持するために、所有・約束・義務などの共通規則が作られる。 したがって正義は、人間の心に最初から備わる本能ではなく、社会的必要から成立した「人為的な徳」である。
資源の希少性+善意の限界 → 社会的規則 → 正義
ヒュームの道徳論は、次のようにまとめることができる。
① 理性が事実と結果を知らせる
② 共感が他者の快・苦を伝える
③ 共通の観点が個人的な偏りを補正する。
④ 道徳感情が行為・性格を是認または非難する。
⑤ 共同生活を維持する必要から、正義という人為的な徳が形成される。
ヒュームにとって道徳とは、理性が単独で命令する規則ではなく、人間の感情と社会生活から成立する評価の仕組みなのである。

人性論 全三篇を一文でまとめるなら
『人性論』は、第一篇「知性について」、第二篇「情念について」、第三篇「道徳について」の三篇から構成される。DarkAxionは情念を中心に検討するサイトであるため、第三篇については、情念論が道徳論へどのように接続するかという観点から、要点のみを紹介する。正義・所有・約束・統治などを含む詳細については、原著による読解をお願いしたい。