
荻間寅男の小論からヒュームへ
本稿がヒュームの情念論へ入る手掛かりとしたのは、イギリス思想史・宗教思想史を研究してきた荻間寅男の小論「ヒュームにおける情念論」である。
荻間は、ヒュームの有名な言葉――「理知は情念の奴隷であり、かつただ奴隷であるべきである」――の意味を、『人性論』第二篇「情念について」だけから理解しようとはしない。第一篇「知性について」における印象・観念・信念の成立から、第二篇の自負・自卑、愛・憎しみを経て、第三篇「道徳について」の共感と社会的規範に至るまでを、一続きの人性研究として読み解こうとする。
その一方で荻間は、ヒュームの説明が必ずしも完成された体系ではないことも指摘する。感覚の印象と快苦との境界は明瞭ではなく、自負がなぜ自己を対象とするのかという問いも、最後には「自然的特性」や「本源的衝撃」へと送り返される。ヒュームは印象、観念、快苦、連合、生気、共感、習慣を用いて情念の発生を説明しようとしたが、その試みにはなお未整理な部分が残されている。
しかし、その悪戦苦闘にこそヒューム情念論の面白さがある。ヒュームは情念を理性の失敗や身体の単純な反応として退けず、人間の知性、自己認識、他者との関係、道徳と行為を動かす中心的な働きとして捉えようとした。
ここで凪原感情論理から、一つの問いを差し挟むことができる。ヒュームが広く「観念」と呼んだものの内部には、事実についての認識、可能性についての認識、対象に対する価値評価が、まだ十分に区別されずに含まれているのではないか。情念の発生を明らかにするためには、印象と観念の強度だけでなく、その認識内容が事実命題・可能命題・価値命題のいずれであるかを分けて考える必要はないだろうか。
本稿がヒュームの情念論へ入る手掛かりとしたのは、 イギリス思想史・宗教思想史を研究してきた荻間寅男の小論「ヒュームにおける情念論」である。
ヒュームの情念論基本構造
- 根底――快・苦
- 材料――印象と観念
- 発生機構――印象と観念の連合、生気の移行
- 方向づけ――自己・他者などの対象
一番深い基礎は快苦
荻間が重視するヒュームの言葉は、快苦を除去すれば、愛情と憎悪、自負と自卑、欲望と嫌悪、その他大部分の二次的印象も除去される。というものである。 したがって、ヒュームにとって情念の根底には、
- 快へ向かう傾向
- 苦を避ける傾向
という「心の一般的傾向」がある。デカルトのように六つの基本情念から多数の特殊情念を分類的に派生させるのでもなく、スピノザのようにコナトゥスと活動能力の増減から喜び・悲しみ・欲望を導くのでもない。ヒュームはまず、経験のうちに現れる快苦を基礎に置く。
情念の材料は「印象」と「観念」
ヒュームにとって心に現れるものは、大きく次の二種類である。
- 印象――現在感じている、強く生き生きした知覚
- 観念――印象が弱められ、記憶・想像・思考の中に再現されたもの
寒さ、痛み、快さなどの感覚的印象が残り、それが観念として再現されると、さらに欲望・嫌悪・希望・恐怖などの新しい「内省の印象」が生じる。この新しく生じた印象が情念である。したがって情念は、外界を写した観念そのものではない。ヒュームは情念を、根源的存在であり、他の存在の模写ではないとしている。「私は怒っている」という情念は、外界にある怒りを写した観念ではなく、心の中に実際に発生した新しい印象である。
個別情念を作るのは「二重関係」
快苦だけでは、「これは自負なのか、愛なのか、喜びなのか」が決まりません。それを決めるのが、ヒューム独特の「観念の関係と印象の関係との二重関係」です。
自負を例にすると、次の構造になります。
flowchart TD
A[“所有物・能力・容姿”] –> B[“快の印象”]
A –> C[“自己との関係”]
B –> D[“自負の快い印象”]
C –> E[“対象=自己”]
D –> F[“自負”]
E –> F
例えば、自分の家が立派だとする。
- 立派な家が快い感情を生む
- その家が「自分の所有物」として自己に結びつく
- 快い印象が自負の快い印象へ移る
- 家の観念が自己の観念へ移る
- 二つの移行が重なって「自負」が生じる
これが二重関係である。
愛の場合も基本構造は同じであるが、情念の対象が自己ではなく他者になる。
| 快苦 | 原因と結びつく対象 | 生じる情念 |
| 快 | 自己 | 自負 |
| 苦 | 自己 | 自卑 |
| 快 | 他者 | 愛 |
| 苦 | 他者 | 憎しみ |
したがって、自負と愛はどちらも快を基礎にする。違いは「快い性質を誰に帰属させるか」です。自分に帰属させれば自負、他人に帰属させれば愛になる。
直接情念と間接情念
ヒュームは情念を二種類に分ける。
直接情念:善悪・快苦、またはその見込みから比較的直接に生じる。
- 欲望・嫌悪
- 喜び・悲しみ
- 希望・恐怖
- 意志
例えば将来の善が確実なら喜びや欲望、不確実なら希望と恐怖が混在する。ここでは因果的な信念や蓋然性が情念の強度を左右する。
間接情念:快苦だけでなく、自己・他者との関係を介して生じる。
- 自負・自卑
- 愛・憎しみ
したがって間接情念では、「快い・苦しい」だけでなく、「それが誰に関係するか」が不可欠である。
荻間による追加――情念は社会の中で完成する
荻間は、ヒュームが第二篇だけでは情念を説明し切れなかったと見ている。
実際の愛憎や自負・自卑は、
- 共感
- 習慣
- 一般規則
- 他者からの評価
- 社会的・道徳的規範
- 個人の気質や経歴
によって変化するからである。そこでヒュームの情念論は、抽象的な「心の内部の連合」から、第三篇の「社会的存在としての人間」へ進む、と荻間は解釈する。
つまり、ヒュームの最終的な情念構造は次のように整理できる。
快苦
\rightarrow 印象・観念
\rightarrow 連合と生気の移行
\rightarrow 自己・他者への帰属
\rightarrow 共感・習慣・社会規範による調整
\rightarrow 個別情念
デカルト・スピノザとの違い
| 哲学者 | 情念の基礎 | 個別情念が生じる原理 |
| デカルト | 身体運動・動物精気と精神の結合 | 身体変化が松果腺を介して精神に働く |
| スピノザ | コナトゥス | 活動能力の増減と、その原因についての観念 |
| ヒューム | 快苦を伴う印象 | 印象・観念の連合、生気の移行、自己・他者との二重関係 |
スピノザには、情念全体を一つに統一するコナトゥスがある。ヒュームには、それに相当する形而上学的な単一原理はない。もっと経験心理学的に、快苦を基礎として、心の中で印象と観念がどのように結びつき、どこへ向けられるかによって情念を説明する。
凪原理論との比較
ヒュームの「快苦」は、一見すると凪原理論の (V_S) に近く見える。しかし、同じではない。
凪原では、事実・可能・価値の命題認識
\rightarrow V_Sの変動 \rightarrow 情念
となる。
これに対しヒュームでは、快苦の印象
\rightarrow 観念・印象の連合 \rightarrow 生気の移行 \rightarrow 情念]である。
ヒュームは「何をよい・悪いと判断したのか」という価値命題を明示せず、快苦と連合で説明しようとする。ここが凪原から見た最大の問題点である。
しかも荻間自身、ヒュームが感覚印象と快苦を明瞭に区別できていないこと、自負などが自己を対象とする根拠を最後には「自然的特性」「本源的衝撃」に求めていることを指摘している。つまり、情念発生の説明を突き詰めると、ヒュームにも「もともと心に備わっている傾向」という未説明部分が残る。
暫時一言でまとめれば、ヒュームは、各種情念の共通基礎を快苦に置き、その快苦を伴う印象と観念が、連合と生気の移行によって自己または他者へ方向づけられることで、自負・自卑・愛・憎しみなどが生じると考えた。
スピノザのコナトゥスに相当するものを探すなら、ヒュームでは単一概念ではなく、「快苦+連合原理+自然的傾向」の組合せになる。
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