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Paris sous les feuilles d’automne Jean-Paul Sartre

LA TRANSCENDANCE DE L’EGO

自我の超越・情動論素描

サルトルはフッサールの現象学を継承している。ただし、意味や理論上の位置づけまで、そのまま受け入れているわけではない。

自我の超越――意識のなかに「私」は住んでいるのか

私たちは普段、「私が考える」「私が怒る」「私が行動する」と語る。そこでは、まず〈私〉という主人がいて、その主人が意識や感情を生み出しているように思われる。サルトルの『自我の超越』は、この当然に見える順序を問い直す論文である。彼によれば、自我は意識の内部に住み、すべてを動かす主人ではない。自我は、意識が自分の状態や行動を振り返るときに現れる対象である。ここでいう「超越」は、人格を高めたり、私欲を乗り越えたりすることではない。自我が意識そのものに内在する構造ではなく、意識の向かう対象の側にあることを意味する。

術語基本的な意味サルトルの立場
エポケー〔判断停止〕世界が実在するという日常的な確信を、いったん括弧に入れる自我も、その特権から外して括弧に入れる対象とする
現象学的還元日常的な存在の受け入れから、意識と対象の現れ方を問う立場へ移る還元後の意識に、自我が不可欠な構造として残ることを否定する
志向性〔本訳では「指向性」〕意識は、つねに何ものかについての意識であるこの考えを継承し、自我も意識が向かう対象として捉える

エポケーは「存在しないと否定すること」ではない。また、還元とエポケーは密接であるが、完全な同義語として扱わないほうが正確。この論文での主要な対立は、後期フッサールが残す〈超越論的自我〉を、サルトルは意識の内部に認めない。「結論」でも、自分の〈我れ〉は他者の〈我れ〉より確実なのではなく、より親密なのだと述べている。

訳語原語この論文での意味
① 〈我れ〉Je行動を統一する面。「私が疑う」「私が行う」という、能動的な面
② 〈自我〉Moi状態・性質を統一する面。「私は憎んでいる」「私は怒りっぽい」という、心理的なあり方の面
③ 〈エゴ〉Ego〈我れ〉と〈自我〉という二つの面をもつ、具体的な人格的統一体

第一章――自我を置かなくても意識は成立する

電車を追いかけるとき、「私」はどこにいるのか

電車に乗り遅れそうになって走っているとき、意識は電車へ向かっている。そこには「追いつかなければならない電車」がある。その瞬間、私たちは必ずしも「私は今、電車を追いかけている」と自分を観察してはいない。読書に没頭している場合も、意識は物語や登場人物に向かっている。

サルトルは、このような非反省的意識を出発点にする。

ここで否定されるのは、経験そのものでも、その経験についての直接的な気づきでもない。非反省的意識は無意識ではない。対象へ向かう意識は、自分自身を改めて対象にすることなく、自らについても意識している。区別されるのは、経験を生きていることと、その経験を振り返って観察することである。

意識の統一に、内部の主人は必要か

経験にはまとまりがある。同じ本を読み続け、同じ電車を追いかけている。しかし、そのまとまりを説明するために、意識の奥に〈我れ〉という統一者を置かなければならないのだろうか。サルトルは、意識が同じ対象へ向かうことや、過ぎた経験を保持する働きなどによって、意識の統一を説明しようとする。「私は考える」と振り返れることから、「私という主人が、すべての意識の内部に最初から存在している」と結論することはできない。自我が反省に現れることと、自我が意識を成立させる条件であることは、別の問題なのである。

第二章――〈エゴ〉はどのように構成されるのか

瞬間の反撥と、持続する憎しみ

サルトルは、ピエールへの憎しみを例にする。ピエールに会い、今、強い反撥や怒りを経験している。この現在の経験を捉えることと、「私はピエールを憎んでいる」と捉えることは同じではない。憎しみという状態には、昨日も憎んでいた、明日も憎むだろう、今その人を考えていない間も続いている、という広がりがある。したがって、憎しみは一瞬の反撥そのものではなく、複数の経験にまたがる統一体である。現在の経験が確かでも、そこから持続する状態について語るときには、現在与えられているものを超えている。自分の感情についての判断も、訂正され得るのである。

行動にも時間的なまとまりがある

ピアノを弾く、文章を書く、論証する、といった行動には複数の段階がある。その全体は、一瞬の意識だけに収まるものではない。疑うことも同様である。薄暗い場所で一瞬「あれは何か」と疑うことと、確実な知識を求めて体系的に疑い続けることは区別される。サルトルが「我れ疑う、ゆえに我れ在り」を取り上げるのは、そこでいう疑いが、瞬間の意識なのか、時間をかけた企て全体なのかを問うためである。

状態・行動・性質を統一する〈エゴ〉

持続する憎しみや愛は〈状態〉として捉えられる。また、怒りや怨みなどを通して、「怒りっぽい」「怨み深い」という〈性質〉が捉えられる場合がある。これらの状態・行動・性質を、同じ私のあり方として統一する具体的な全体が〈エゴ〉である。ただし、エゴはそれらの背後に隠れた、性質をもたない支えではない。状態や行動によって特徴づけられ、それらと切り離しては捉えられない。私たちは「怒りっぽい私だから怒った」と考えがちである。しかしサルトルは、反省を通して捉えられる自我を、意識を生み出す原因として最初から置くことを問題にする。

意識の自発性と、自我が意識を生産するという説明とは区別されなければならない。なお、この自発性は、感情や思考をいつでも意図どおりに選べるという意味ではない。

自分は、自分にとっても完全には透明でない

〈エゴ〉は、自分に親密な対象である。しかし、親密であることは、完全に確実であることを意味しない。「私はこういう人間だ」という理解は、その後の経験によって変わり得る。サルトルは、言葉による判断以前の直観的な自己理解にも、誤りの可能性を認める。自我を知ることは、意識の奥にある完成済みの本体を、そのまま取り出すことではない。

結論――自我と世界を、意識との関係から捉え直す

自我もまた、他者と検討できる対象になる

自我を意識の内部から対象の側へ位置づけ直すと、自分の状態や性格は、自分だけが絶対的に知る所有物ではなくなる。他者が私の行動から理解する私と、私自身が捉える私は、無関係な二つの対象ではない。自分には親密な捉え方があるが、それだけで他者に対して絶対的な認識上の特権をもつわけではない。

自我は、意識の自発性を覆い隠すこともある

結論では、自我の役割について、さらに踏み込んだ考察が示される。「私はこういう人間だから、こう考える」と捉えることで、意識は自分を一定の性格や状態から説明できる。サルトルは、自我がこのように意識自身の自発性を隠す役割を担うのではないかと考える。反対に、その覆いが揺らいだとき、意識は自分の思考が自ら生じることに不安を抱く。これは彼が提示する哲学的な解釈であり、臨床的に確立された説明として述べられているものではない。

私だけを絶対とする立場を越えて

自我が意識の内部にある絶対的な中心でなければ、自分の自我だけを、他者や世界に対して特別な存在にすることはできない。サルトルは、この立場によって独我論を退けようとする。結論では、自我と世界は、一方が他方を創造したものではなく、非人称的な意識に対する二つの対象として位置づけられる。「非人称的」とは、無意識であることや、すべての人の意識が一つであることを意味しない。意識の根本構造に、人格的な〈私〉を置かないという意味である。サルトルが目指したのは、自我を消し去ることではない。自我を意識の絶対的な主人という位置から移し、世界や他者との関係のなかで捉え直すことであった。

『自我の超越』は、「私が意識をもつ」という日常の表現の奥に立ち入り、意識と〈私〉の関係を、根本から問い直す論文なのである。

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