
精神分析の原点――ブロイアー、アンナ・O、そしてフロイト
水を飲めなかった女性
1880年代のウィーン。医師ヨーゼフ・ブロイアーは、後に「アンナ・O」の仮名で知られる若い女性を治療していた。彼女は父親の看病とその死をめぐる時期に、手足の麻痺、視覚や言葉の障害など、さまざまな症状に苦しんだ。なかでも不思議だったのは、強く喉が渇いているのに水を飲めなくなったことである。コップを唇に近づけると、どうしても押し戻してしまう。理由は本人にも分からなかった。
約六週間後、彼女は催眠中の会話で、以前目にした光景を語った。好意を持っていなかった英国人の付き添いの女性の部屋で、その女性の小犬がコップから水を飲んでいた。アンナ・Oは強い嫌悪を覚えたが、その場では礼儀を守って何も言わなかったという。ブロイアーの報告によれば、彼女がその出来事を語り、押しとどめていた怒りを表した後、水を求めて飲めるようになった。この症状は以後、現れなかったと記されている。
「語ること」が治療の手がかりになる
この出来事が重要なのは、ブロイアーが初めから「犬の記憶を探せば治る」と知っていたわけではない点にある。彼女の語りと症状の変化に出会い、ほかの症状にも、それが現れたときの体験や情動とのつながりがあるのではないかと調べ始めたのである。アンナ・O自身は、語ることを通じたこの方法を talking cure、すなわち「語る治療」と呼んだ。ブロイアーは、症状に関わる出来事を思い起こし、そのとき表せなかった感情を表現することで症状が変化する、と考えた。これが後に浄化法と呼ばれる方法の出発点となった。ただし、ここで起きたことを「忘れた記憶を取り戻せば、どんな症状も治る」と一般化することはできない。この症例で何が変化を生んだのか、そして治療全体をどう評価するかは、さらに検討を要する。
ブロイアーからフロイトへ
当時、若い医師だったジークムント・フロイトは、ブロイアーからこの症例を聞き、大きな関心を抱いた。フロイトは後年、ブロイアーが症例記録を読み聞かせてくれたこと、自分も患者の治療でその方法を試したことを振り返っている。
一人の患者についての発見は、ほかの人にも当てはまるのか。フロイトは自分の臨床例を通じてこの問いを追い、ブロイアーとの共同研究に進んだ。二人は1893年に共同論文を発表し、1895年にはアンナ・Oを含む症例を収めた『ヒステリー研究』を刊行する。ここが精神分析へ向かう重要な原点である。ただし、ブロイアーの浄化法と、その後フロイトが築いた精神分析は同じものではない。フロイトはさらに、抵抗や抑圧、無意識の働きをめぐる独自の理論と技法を発展させていく。
参照資料
- ヨーゼフ・ブロイアー「アンナ・O嬢の症例」、ブロイアー/フロイト『ヒステリー研究』、1895年、15–36頁。ドイツ語原文:Wikisource掲載ページ。
- S・フロイト「精神分析の起源と発展」第1講
- S・フロイト『素人分析の問題』――ブロイアーとの共同研究を振り返る箇所