DarkAxion所収:志澄との第一章
● 野々村講義:言語哲学とは何か
● 野々村講義:意味とは何か──命題と世界
それでも語りたいと思った夜に。
2007年、都内の私立大学──秋の講義室にて。講義テーマは「言語と倫理の限界──ヴィトゲンシュタイン再読」。
『沈黙の輪郭』冒頭導入
※本講義録は、実在するある哲学者の著作をもとに、小説『沈黙の輪郭』の導入として再構成したものです。哲学講義の空気感を再現しつつ、後半に登場する斗真と志澄の出会いに繋がる場として描写しています。
第一講:言語哲学とは何か
講師(野々村):「さて、言語哲学とは何かと問われたとき、我々はどこから語り始めるべきか。
この問いは、単に“言語について考える哲学”ではありません。言語を通じて、世界をどう捉えるのか。さらには“意味”とは何か、“表現”とは何か、という問題にまで突き当たります。
たとえば『机の上にリンゴがある』という文があるとしましょう。この文は、現実の状態と一致しているとき『真』である。では、その“一致”とはいかなる構造を持つのか? これが、言語哲学の起点となります。」
第二講:意味とは何か/ヴィトゲンシュタインの命題論理
講師(野々村):「意味とは何か、という問いは、日常的な“語の定義”というレベルでは捉えきれません。
ヴィトゲンシュタインの初期の考え方では、“意味とは対象との対応関係にある”とされました。
つまり、“命題”とは、現実の一つの“像”である。そして、その像が世界の構造を映しているとき、命題は真となる。
しかしこれは、やがて彼自身によって反省されます。 “語は対応ではなく、用いられる文脈の中で意味を持つ”という、後期ヴィトゲンシュタインの考え方へと移行していくのです。」/
教授が問いを投げた。
「“語り得ぬものには沈黙せねばならない”とは、倫理の放棄を意味するか?」
そのとき、社会人風の男が静かに手を挙げた。講義を受けていた学生たちの視線が一斉に彼に向く。
「倫理が沈黙すべきものなら、それは制度設計にすら介入できない。だが現実には、語れないものにこそ制度は侵される。私は、その“語れぬ欺瞞”に沈黙を強いられてきた。」
教室が一瞬、息を止めたかのように静まり返った。
最後列にいた一人の女子学生が、そのときだけメモを取る手を止め、顔を上げた。彼女の名は、甲斐志澄。
休憩時間、階段下の喫煙スペース。
志澄 こんにちは、わたし甲斐志澄といいます。先ほど発言されてましたよね。
斗真 :あっいや、たまたま関心があるテーマだったんで、つい出しゃばりまして、お恥ずかしい。凪原といいます。よろしくお願いします。
志澄 :こちらこそ、実は私も同じようなテーマに関心があって、あっ、同じようなこと考える方っていらっしゃるんだって感動してしまいました…
斗真は、正直若い女の子から声を掛けられるなんて、正直びっくりした。どぎまぎしている志澄は後を続けた。
志澄 :”……私、いまそれを論文に書いてるんです」 斗真:「奇遇だな。倫理が欺瞞に敗れる現場を、わたしはこの目で見てきた、と思っている。」 志澄:「よければ…もっと詳しく、聞かせてくれませんか?」
斗真:いや、内容が具体的になってきて、個人的な失敗談を話すことになるので、申し訳ない、もう少しまとめてからお話ししようと思います。それより志澄さんっていったかな。野矢先生のこの講義には毎回出ていたの。今まで気づかなかった。この次の講義でもまたお会いできるね。
その夜、斗真は神奈川の自宅へ帰る電車の中で、録音メモに呟いた。
「“志澄”という名の学生が声をかけてきた。何かが…始まった気がする。」
彼はまだ知らなかった。 この出会いが、のちに「声を失った女」と「語ることに取り憑かれた男」の物語を生むことを。/
🧠 凪原斗真(投稿) 「“猫がじゃれている”という文と、“猫は魚である”という文。どちらも文の形は似ていますが、意味の性質がまったく違うように感じます。 前者は、自分が実際にその様子を見たかどうかで“真”か“偽”かが判断できます。 でも後者は、“猫”という概念と“魚”という概念が交わるかどうか……つまり論理的に成り立つかどうかで“偽”とすぐに判断できる。
意味って、単に言葉の“使用”ではなくて、概念同士が交差できるかどうか、その可能性にあるのではないでしょうか?」
🧡 甲斐志澄(コメント) 「とても興味深いお考えですね。使用だけでは説明できない部分、確かにあるかもしれません。 ……でも、斗真さん、すごく哲学的で、なんだかちょっと意外でした。初対面のときはもう少し柔らかい雰囲気を感じたので(笑)」
🧠 斗真(返信) 「恐縮です。まだ、こうした考えを人前で書くのには少し勇気がいりますが……今日はなぜか、言葉にしてみたくなりました。
“意味とは何か”という問いは、たぶん、ずっと昔から私たちの中にあるものなのかもしれませんね。」
意味って、単に言葉の“使用”ではなくて、概念同士が交差できるかどうか、その可能性にあるのではないでしょうか?
言葉の意味が成立するためには、二つの異なる水準が必要だと思います。 第一に、“世界を認識する主体”が存在すること。 第二に、その主体たちが“言葉を使用する社会的ルール”を共有していること。 意味とは、単なる使われ方だけでなく、概念同士の交叉と、それを認識できる意識の存在によって支えられているのではないでしょうか。」」
“意味とは何か”という問いは、たぶん、ずっと昔から私たちの中にあるものなのかもしれませんね。」
『沈黙の輪郭』第一章より
夜の対話――SNS上の斗真と志澄
(舞台:哲学科の新入生向け公開講義の夜。斗真は講義に刺激され、X(旧Twitter)に短文を投稿する。志澄はそれに気づき、返信を始める。)
斗真(投稿)
世界って、事実の集合ってことになってるけど、 ペガサスとか夢の中の声って、やっぱり“世界の外”なの?
志澄(返信)
世界の外っていうより、“もう一つの窓”って感じかな。矛盾すら通る細い穴。
斗真
矛盾…?Dと¬Dが両方成立するような? でも、それは論理的にアウトだろ。
志澄
野々村先生は講義で言ってた。「D∧¬Dは古典論理では死刑宣告。でも物語では、矛盾はしばしば詩になる」って。
斗真
……それ、たとえば?
志澄
「殺してはならない」と「殺さねばならない」が並ぶ法廷。 「赤信号で止まれ」と「緊急なら進め」が共存する道路。 「愛してるのに別れたい」が成り立つ夜。
斗真
それは……感情ってやつか。
志澄
だから私は、D∧¬Dを“真”って言える場所を信じたい。 真偽だけじゃない世界のかたち。可能、価値、祈り。
斗真
……命題には“型”があるってこと?「真理命題」と「当為命題」は区別すべきって?
志澄
そう。 それをしないと、言葉が自分を殺す。
斗真(投稿)
俺はまだ、何がDで何が¬Dかもわかってない。 でも志澄、お前がその“細い穴”の先で待ってるなら、 俺はそこに踏み込んでみるよ。
(画面には斗真のアカウント名“@nagi_toma”、志澄は鍵アカ。“@silent_axis_14”とだけ表示される)
【野々村の講義備考(斗真ノートより)】
- 「“〜べき”という命題は、古典命題論理では扱えない」
- 「当為命題は、条件の変化によって命題の成立範囲が変わる」
- 「D∧¬Dが“見かけ上成立してしまう”ように思われるのは、物語において、あるいは制度や倫理における前提条件の無視、または命題の型の混同によるものである」
- 「だが、それを矛盾として切り捨てるより、“耐性”として取り込む論理体系が今後求められるかもしれない」
(斗真のノート、余白にシャープペンで走り書き)
「でもそれって、論理の敗北じゃなくて、言葉の進化って言えるか?」
第一章 了
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